夜の一時すぎに、最後の頁を閉じました。湯のみのほうじ茶は、とうに冷めていました。
閉じたあと、しばらく本の上に手を置いたまま、動けませんでした。
語り手の声
語り手は、キャシーという女の人です。三十一歳で、「介護人」という仕事を長く続けています。
この本は、彼女が子どものころを思い出していく話です。イギリスの田舎にあった、ヘールシャムという寄宿の施設。そこで一緒に育った、ルースとトミー。絵を描いた授業のこと。先生たちのこと。宝物を交換した日のこと。
キャシーの声は、とても静かです。少しずつ、行きつ戻りつしながら話します。あのとき、ルースはこう言った気がする。でも、もしかしたら違ったかもしれない。そういう言い直しが、何度も出てきます。
わたしは最初、その声を、ただの丁寧な人の話し方だと思って読んでいました。
少しずつ分かってくること
読み進めるうちに、ヘールシャムがふつうの学校ではないことが分かってきます。先生たちは、子どもたちに何かを言いかけて、やめる。子どもたちは、自分たちが何のために育てられているのか、知っているような、知らないような顔で暮らしています。
それが何なのかは、ここには書きません。物語の途中で、はっきり示されます。驚かせるための仕掛けではありません。わたしが胸をつかまれたのは、むしろ、分かったあとでした。
分かったあとも、キャシーの声は変わらないのです。怒らない。叫ばない。ただ、思い出し続けます。
三人のこと
ルースは、強くて、少し意地の悪いところがある友だちです。トミーは、かんしゃくを起こしやすい、不器用な男の子。キャシーは、その二人のあいだにいます。
三人の関係は、きれいなものではありません。嫉妬もあるし、言わなかったこともある。取り返しのつかない遠回りもします。
読みながら、わたしは何度か、学生のころの友だちを思い出していました。言えばよかったこと。言わなくてよかったこと。そのどちらも、いまはもう、確かめる相手がいません。
切なさの、底のほう
切ない、という言葉では、たぶん足りません。
この本の切なさは、涙が出るような種類のものではありませんでした。夕方の光が、窓の桟から少しずつ引いていく。それを止めようとしないで、ただ見ている。そういう静けさです。
キャシーたちには、選べないことが多すぎます。それなのに、彼女は自分の思い出を、ひとつずつ丁寧に拾い上げる。拾い上げることだけは、誰にも取り上げられないから。
わたしたちは、たぶん、もっと多くのことを選べます。選べるのに、思い出をこんなに大事にしているだろうか。読み終えてから、そのことを少しだけ考えました。
浴びてほしい人
- 友だちに、言えなかったことがある人
- 大きな声で泣かせる話より、黙って残る話が好きな人
- 秋の長い夜を、一冊で使いきりたい人
浴びる時間
秋の夜に。途中で筋を調べずに読んでください。眠れない夜に読みはじめると、たぶん、もっと眠れなくなります。それでもいいと思える夜に。
作品データ
- 書名: わたしを離さないで
- 著者: カズオ・イシグロ
- 訳: 土屋政雄
- 原著: 2005年(英語で書かれ、イギリスで出版)
- いまはハヤカワepi文庫(早川書房・2008年)で読めます
近い気持ち
しずくは五つにしました。たぶん、この本はあと何年かして、もう一度読むことになります。そのときは、キャシーより年上になっているはずです。
