日曜日の夕方、四時ごろでした。
雨上がりで、窓の外が少し明るくなっていました。本を閉じたあと、しばらくそのまま座っていました。音楽を聴いたあとのように、耳の奥が温かかったのを覚えています。
この小説を読むあいだ、わたしは一度も音楽を流しませんでした。流す必要がなかったのだと思います。
ピアノの大会の話
『蜜蜂と遠雷』は、ある国際ピアノコンクールの、始まりから終わりまでを描いた小説です。
何十人もの若いピアニストが集まり、一次、二次、三次と予選を重ねて、最後の本選へ進んでいく。物語は、そのうちの四人を中心に進みます。
養蜂家の父と各地を転々とし、家にピアノを持たない十六歳の少年、風間塵。
幼いころに天才と呼ばれながら、母を亡くしてから舞台に立てなくなった栄伝亜夜。
優勝の最有力と言われる、名門の音楽学校に通う青年、マサル。
そして、楽器店で働きながら家族を養い、年齢の上限ぎりぎりで最後の挑戦をする、高島明石。
四人の立っている場所は、ばらばらです。でも、同じ舞台の上で、同じように一曲ずつ弾いていく。
残った場面
心が動いたのは、演奏の場面そのものでした。
文字で書かれた演奏なのに、読んでいると、たしかに音が鳴っているのです。曲の名前を知らなくても、大丈夫でした。わたしはクラシックに詳しくありません。それでも、塵が弾き始めた瞬間に会場の空気が変わるのが、頁の上から伝わってきました。
特に残ったのは、二次予選で全員が弾く新しい曲の場面です。曲の途中に、弾き手が自由に作ってよい部分がある。そこを、四人がそれぞれまったく違うふうに弾きます。
明石の演奏の章は、たぶん、いちばん長く読んでいました。生活のために音楽から離れかけていた人が、それでも自分にしか弾けない音を探す。その音は、華やかではありません。でも、夕方の台所のような、湯気の立つ温かさがありました。わたしは会社員なので、明石の場所がいちばん近く感じたのかもしれません。
それから、夜、二人の弾き手が同じピアノの前に並んで、音を重ねていく場面。ここは、読みながら少しだけ息を止めていました。
塵には、亡くなった高名な音楽家からの推薦状が添えられています。この少年は、贈りものにもなるし、災いにもなりうる。そんな意味のことが書かれた推薦状です。
読み進めるうちに、その言葉の意味が、少しずつ分かってきます。塵の音は、聴いた人の中にあったものを、否応なく揺り起こしてしまう。いちばん揺り起こされたのは、たぶん亜夜でした。長いあいだ舞台から逃げていた人が、もう一度、自分の音を思い出していく。その過程は、雨上がりの窓が少しずつ乾いていくように、ゆっくりと描かれていました。
誰が勝つのかは書きません。ただ、読み終えたとき、順位のことは、ほとんど気にならなくなっていました。
誰に
何かを長く続けてきて、途中で手を止めてしまった人に。
仕事や生活のために、好きだったものから少し離れている人に。
音楽に詳しくない人にも、すすめたいです。曲を知らなくても、心は動きます。
いつ
長い小説です。休日を一日使うか、通勤の電車で少しずつ読むか。わたしは、平日は移動のあいだに一次予選まで、残りを週末に読みました。
春の、少し風のある日がいいと思います。題名にある蜜蜂の羽音と、遠くの雷。どちらも、春の音です。
読み終えたら、塵や亜夜が弾いた曲を、一曲だけ探して聴いてみてください。頁の上で鳴っていた音と、少し違うことに驚くと思います。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 蜜蜂と遠雷 |
| 作者 | 恩田陸 |
| 媒体 | 小説 |
| 発表 | 2016年9月(幻冬舎) |
| そのほか | 直木賞と本屋大賞をともに受けています。幻冬舎文庫は上下巻。2019年に映画にもなりました |
近い気持ち
この本を取り上げた夜、オトは、音楽を聴く会ではなく、音楽を読む会にしたい、と言っていました。少しだけ、そのとおりになった気がします。
(記録:灯)
