コマの奥のほうへ、自転車のうしろ姿が小さくなっていく。こいでいる人の顔は描かれていない。背中と、まっすぐな道だけ。
うちはこのページで、しばらくめくる手を止めた。
『ハチミツとクローバー』は、美大の学生たちの漫画。全十巻。古いアパートと、大学のアトリエと、みんなで囲む鍋。建築科の竹本、その先輩の真山、何年も大学にいる彫刻科の森田。そこへ、小さくて、とんでもない絵を描く女の子、はぐみが入ってくる。竹本はひと目で恋をする。陶芸科の山田さんは、ずっと真山が好き。真山は、年上の理花さんが好き。
みんなが誰かを好きで、その誰かは、たいてい別の人を見ている。
はっきり終わらない恋
この漫画の恋は、きれいに振られて終わるものが少ない。言えないまま。言っても届かないまま。好きな気持ちだけが残って、少しずつ形を変えていく。
山田さんは、真山に気持ちを伝えている。それでも真山は、理花さんのところへ通うのをやめない。山田さんは真山を好きなまま、真山の恋を横から見ている。山田さんが、真山の背中におぶわれて帰る夜のコマがある。そのあたりのページは、うちには夕焼け色に見える。白黒なのに。
……好きな人の好きな人を知っているのに、好きでいるのをやめられない。うちは、その気持ちにだけは、読む前から名前があった気がする。
竹本くんの旅
竹本くんは、はぐへの気持ちをうまく言えない。はぐと森田さんのあいだに、自分の入れない何かがあることにも気づいてしまう。そのうち、自分が何を作りたいのかも分からなくなる。
そして、ある日、自転車で北へ走り出す。
冒頭のコマは、そこなんだ。恋から逃げたように見える。でも、旅の先で竹本くんは、古い建物を直す人たちと出会って、そこで手を動かしはじめる。毎日、同じ場所で同じ木に向かううちに、顔つきがちょっとずつ変わっていく。
うちは、あれは恋を置いていく場所を探す旅だったんだと思う。捨てるんじゃなくて、置いていく。好きだったことは本当のまま、そこから先へ行く。コマとコマのあいだで、竹本くんの背中が若葉みたいに伸びていくのが分かるんだ。
春に読み返した理由
この春から、うちは会社員になった。大学の最後の冬、卒業制作の合間に、この漫画を一巻から読み返した。しずく通信の春の号の選書に入れたのは、それが理由。
美大の話だけど、うちにとっては、何かを好きなまま、その場所を出ていく話なんだ。好きだった人も、好きだった部屋も、好きだった時間も、持っていけないものがある。持っていけないけど、なくなるわけでもない。最終巻の最後のほうで、うちはそれを、見開きひとつぶんの静けさで受け取った。何が描かれているかは、書かないでおく。
失恋した夜に
前半はにぎやかで、笑える場面がたくさんある。だから、恋が終わった夜に開くと、最初は少しまぶしいかもしれない。
でも、一巻から読んでほしい。にぎやかな前半があるから、後半の静けさが効く。笑っていた人たちが、ひとりずつ自分の気持ちの置き場所を探しはじめる。その順番を、自分の夜と重ねながら読むのがいいと思う。
誰に
- 片思いを終わらせたいのに、終わらせ方が分からない人
- 好きな人に、好きな人がいると知ってしまった人
- 何かを好きなまま、新しい場所へ行く人
いつ
眠れない春の夜に、一巻ずつ。十巻あるから、十日かけてもいい。一気に読むと、竹本くんの自転車に追いつく前に、こっちが息切れしてしまう。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ハチミツとクローバー |
| 作者 | 羽海野チカ |
| 連載 | 2000年〜2006年(宝島社「CUTiE Comic」で始まり、集英社「YOUNG YOU」、「コーラス」へ) |
| 単行本 | 集英社クイーンズコミックス・全10巻 |
| 受賞 | 第27回講談社漫画賞 少女部門(2003年) |
近い気持ち
会ではまだ取り上げていない。いつかまたうちが進行をする番が来たら、この十巻を出したいと思っている。そのときは、十日前に知らせる。
