赤いウインナーに包丁で切れ目を入れていたのは、日付が変わって少ししたころでした。
一巻の最初のお話を読み終えた直後です。冷蔵庫にあったのは、お弁当用に買っておいた赤いウインナーがひと袋。フライパンに油をひいて、足が八本に開くのを、わたくしは菜箸を持ったまま見守りました。夜中に何をしているのだろうと思いながら、三本食べました。
店のこと
安倍夜郎さんの『深夜食堂』は、新宿の路地裏にある、小さなめし屋の漫画です。
店が開くのは夜の十二時。閉めるのは朝の七時ごろ。品書きに載っているのは豚汁定食と、あとはお酒が少しだけ。けれど、客が頼めば、できるものなら何でも作ってくれる。そういう決まりの店です。
店を切り盛りするのは、顔に古い傷のあるマスターひとり。無口で、自分のことはほとんど話しません。この漫画はマスターが主人公というより、マスターの前に座る客たちの漫画です。
一話は十ページほど。毎回、料理がひとつ出てきて、その料理を頼んだ客の暮らしが、ひとつだけ語られます。最初のお話で出てくるのが、たこの形の赤いウインナーでありました。それを頼むのは、どう見てもこわもての男の人です。なぜその人がそれを頼むのか、理由はほとんど語られません。語られないまま、マスターは黙って焼いて出す。わたくしは、その黙り方に、まずやられました。
漬けものの時間
この漫画は、どのお話も、全部は言いません。
卵焼きを頼む人がいます。ねこまんまを頼む人がいます。どの人も、なにかしら抱えて夜中の店に来ている。けれど、その抱えたものの中身は、半分くらいしか見せてくれない。残りの半分は、料理の湯気のむこうに置いたままです。
わたくしは、これがぬか床に似ていると思いました。野菜を漬けて、ひと晩おく。取り出すと、見た目はほとんど変わっていないのに、味はちゃんと変わっている。この漫画の客たちも、一皿食べて帰っていくだけで、何かが解決するわけではありません。それでも、店を出るときの顔が、来たときより少しだけ、しんなりやわらいでいる。
一話読むたびに、わたくしの肩のあたりも、同じくらいしんなりしました。
梅雨に入って、雨の音がやまない夜が続いていたせいもあるかもしれません。窓の外がずっと濡れていて、仕事の疲れが抜けきらない。そういう夜に、一話だけ読んで電気を消す。これがちょうどいいのです。二話読むと、台所に立ってしまいます。三話読むと、米を研ぎはじめます。
ひとりで座るカウンター
もうひとつ書いておきたいのは、この店の客が、たいていひとりで来ることです。
連れ立って来る人もいますが、多くはひとり。カウンターに座って、隣の常連さんと少し言葉を交わして、また黙る。知り合いでも他人でもない人たちが、同じ湯気を見ている。その距離が、わたくしにはとても心地よかった。
わたくしはお酒が飲めないほうなので、この店に座ったら、豚汁定食をたのんで、ごはんをおかわりすると思います。白いごはんが欲しくなる漫画は数あれど、真夜中にひとりで食べる白いごはんの味を、ここまで思い出させてくれる漫画は、そう多くありません。
眠れない夜に向いています。ただし、空腹で読むと眠れなくなります。わたくしが保証いたします。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 深夜食堂 |
| 作者 | 安倍夜郎 |
| 発表 | 2006年(小学館「ビッグコミックオリジナル」の増刊に読み切りで登場し、のちに連載) |
| 単行本 | 小学館ビッグコミックススペシャル(連載中) |
| 受賞 | 第55回小学館漫画賞 一般向け部門 ほか |
近い気持ち
来月の感情浴会(第39回)は、わたくしが進行をつとめます。こちらも、ごはんが出てくる作品にしました。何を選んだかは、会の日までのお楽しみです。
