コンクールの舞台で、金色の髪の女の子が、楽譜に書いてあるとおりにはまったく弾かずにヴァイオリンを鳴らしはじめて、審査員が眉をひそめているのに、客席のほうが先に身を乗りだしていく、あの見開きを、自分はたぶん一生忘れないと思います。
その客席に、ピアノをやめた中学三年生の男の子が座っています。有馬公生。子どものころは大人のコンクールでも勝ってしまうくらいの腕だったのに、母親を亡くしてから、自分の弾くピアノの音が聞こえなくなってしまった人です。鍵盤をたたいても、耳の中で音が消える。だから、もう弾かない。
ヴァイオリンを弾いていたのは、同じ学年の宮園かをりでした。明るくて、わがままで、びっくりするくらい自由な子で、公生のことを最初はちゃんと名前で呼びもしない。その子が、ある日、公生に伴奏を頼んできます。
音が聞こえなくなった人
この漫画を読んでいると、何度も喉がつまるんです。泣かせる場面が来たから、というよりも、演奏の場面になるたびに、コマの中の音が、紙の上なのに本当に鳴っている気がして、息をするのを忘れてしまう。
公生は、かをりに引っぱられて、もう一度舞台に上がります。でも、やっぱり途中で音が聞こえなくなる。弾いている手が、急に水の中にいるみたいに重くなる。自分は、ここで読むのを一回止めました。
かをりは、公生にとにかく無茶を言います。練習の時間もろくにないのに舞台に上げるし、音が聞こえなくても弾いて、と迫る。読んでいる自分は、最初、ちょっとひどいと思いました。でも、巻が進むにつれて、その無茶の手ざわりが少しずつ変わってくるんです。
逃げ出したくなる場面で、一度止まってしまった人が、それでももう一度鍵盤に手を戻すのを見ると、自分の背中まで熱くなってくるんです。最後の一周で足が止まりそうなとき、隣を走っている誰かの息づかいが聞こえて、もう一回だけ腕を振ってしまう、あの感じに近いと思いました。
公生のまわりには、幼なじみの二人がいます。家が隣の澤部椿と、サッカー部の渡亮太。この二人の話も、ここ、本当に、いいんです。とくに椿の話は、途中からじわじわ胸にきます。ずっと近くにいた人だから言えないことがある、というのを、この漫画は主人公の恋とは別の線で、ちゃんと描いてくれている。
三月のうちに
題名のとおり、物語は四月に始まります。桜が咲いて、制服が少し新しくて、あの子に出会う春。
でも、自分はこの漫画を、四月になる前に読んでほしいと思っています。
結末には触れません。ただ、読み終えたとき、自分はしばらく何もできなくなりました。何回観ても同じ場面で声が出なくなる、というのが自分の中の目安なんですが、それが漫画で、しかも読み返すたびに来たのは初めてでした。最終巻は、一気に読むのがこわくて、三回に分けて読みました。一日目は途中で閉じて、二日目も途中で閉じて、三日目の夜にやっと最後まで行けたんです。
それから、一巻に戻りました。戻って読むと、最初の見開きのかをりの弾き方が、まるで違って見える。あの自由さの中に、自分が一回目には気づかなかったものが、たくさん入っていたんです。
春が近づいて、なんとなく眠れない夜が増えてきたら、この漫画を一冊ずつ読むのがいいと思います。四月が来るまでに、泣いておく。そうすると、今年の桜が、少しだけ違って見える気がします。
- 何かをやめてしまって、そのままになっている人
- 近くにいる誰かに、ずっと言えていないことがある人
- 楽器をやったことがない人。自分もそうですが、ちゃんと音が聞こえます
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 四月は君の嘘 |
| 作者 | 新川直司 |
| 連載 | 講談社「月刊少年マガジン」(2011年〜2015年) |
| 巻数 | 全11巻 |
| アニメ | 2014年10月からテレビアニメが放送(全22話) |
去年の五月、第1回の会の候補を考えていたとき、テーマの「泣きたい」で実は一度だけ頭をよぎった作品です。全十一巻を一晩で、とは言えなくて、候補の三つには入れられませんでした。いつか、泣きたい月にもう一度。
