頁を開いてすぐに聞こえてきた語り手の声は、思っていたよりずっと軽やかでした。
目で読む本の話なのに、声の話から始めるのは妙かもしれません。けれど、ぼくはこの本を、語り手の声で覚えています。成瀬あかりの幼なじみで、いつもその隣にいる島崎みゆきの声です。少しあきれていて、少し心配していて、その下でずっと笑っている。そういう声で、物語は始まります。
どんな本か
中学二年の夏、成瀬は島崎に、この夏を地元のデパートに捧げると宣言します。閉店が決まったそのデパートからは、平日の夕方、地元のテレビが中継をしていました。成瀬はそこに毎日通い、画面の端に映り続けるというのです。野球のユニフォームを着て。
理由は、ほとんど語られません。成瀬はいつもそうです。やると決めたらやる。人にどう見られるかは、あまり気にしない。
本は六つの話でできていて、成瀬が中学生から高校生になるまでを、島崎や、同級生や、ときには大人の目を通して追っていきます。漫才の大会に島崎と組んで出る話もあれば、高校の入学式に、ある理由で髪を思いきって剃りあげて現れる話もあります。舞台は、湖のそばの町です。
心が動いたところ
ぼくがいちばん長く止まったのは、デパートに通う夏の終わりの場面でした。毎日のことが、あるときふっと終わりに近づく。成瀬は相変わらず淡々としていて、そのぶん、隣にいる島崎の声のほうが、少しだけ揺れるのです。声が変わる一瞬、というのがあって、ぼくはそこで頁をめくる手が止まりました。
成瀬は、泣かせにくる人物ではありません。むしろ、何を考えているのか分からないところが面白い。それなのに、読み進めるうちに、こちらの背中がすっと伸びていく。人に笑われることを、少しもこわがらない人の隣にいると、自分の迷いがずいぶん小さく見えてくるのでしょうか。
古い家の縁側で、祖母が近所の子どもの話をしていたときの声を、ぼくは思い出していました。あきれているのに、どこか誇らしげな声です。島崎の語りには、あれに近い温度があります。
もうひとつ、ぼくが好きなのは、成瀬の口調です。同級生に対しても、大人に対しても、少し古風で、きっちりとした言葉づかいをする。中学生がそんな話し方をするのは、ふつうならおかしく聞こえるでしょう。けれど、成瀬が言うと、ふしぎと筋が通って聞こえるのです。柱時計のように、誰に対しても同じ速さで時を刻んでいる。そういう人の言葉は、まわりの空気を少しだけ正すのかもしれません。
後半の話では、成瀬のことを遠くから見ている人たちの目が加わります。同じ学校の生徒、たまたま出会った大人。彼らの目に映る成瀬は、島崎の語る成瀬とは、また少しちがって見える。ひとりの人を、何人もの声で語っていく作りなので、読み終えたころには、成瀬のまわりにいる人たちのことまで、好きになっていました。
浴びてほしい人
- 新しい場所で、周りの目が気になってしかたない人
- 何かを始めたいのに、「今さら」と思ってしまう人
- 本を読むのが久しぶりな人。一話ずつが短く、声に出して読みたくなるほど、文が気持ちよく流れます
いつ浴びるか
春の、新しい生活が始まって少し疲れてきたころに。一日に一話ずつ、寝る前に読むのがいいと思います。読み終えた夜は、ふしぎと少しだけ早起きしたくなります。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 成瀬は天下を取りにいく |
| 著者 | 宮島未奈 |
| 刊行 | 2023年3月(新潮社) |
| つくり | 六つの話からなる連作 |
近い気持ち
ぼくはこの本を、大学の新しい学年が始まったばかりの四月に読みました。新しい教室、新しい顔ぶれ。人の目が気になって、少し縮こまっていた時期です。読み終えた翌朝、いつもより一本早い電車に乗りました。成瀬なら、きっとそうするだろうと思ったのです。
四月の感情浴会(第48回)でこの本を取り上げました。進行は灯さん、記録はぬかさんです。会では、成瀬の次の行動を当てられた人が一人もいなかったのが、いちばん盛り上がったところでした。ぼくも全部はずしました。
