右ページの下のほう。雨の田んぼ道で、女の子がスキップしている。傘はさしていない。服はびしょぬれ。顔は、うれしくてたまらないって顔なんだ。
うちはこのコマで、一回本を閉じた。
藤本タツキの『ルックバック』は、百四十ページあまりの読み切りの漫画。小学四年生の藤野は、学年新聞に四コマ漫画を描いていて、クラスではちょっとした人気者。ある日、同じ新聞に、学校に来ていない京本という子の四コマが載る。背景の描き込みが、比べものにならないくらいうまい。藤野は悔しくて、その日から毎日、机にかじりついて絵の練習を始める。
心が動いたところ
練習の場面が、とにかく長い。セリフはほとんどなくて、机に向かう背中だけが描かれたコマが、何度も何度も続く。窓の外が夏の色になって、落ち葉の色になって、雪の白になって、それでも背中は同じ形のまま。コマとコマのあいだで、何か月も過ぎているんだ。
……うちはここで、自分が何かを投げ出した日のことを思い出して、少し苦しくなった。続けるって、こういう背中のことなんだと思う。誰にも見られていない時間のほうが、ずっと長い。
しかも藤野は、最初から上手な子として描かれていない。クラスの子に褒められて、ちょっと得意になっていた、ふつうの小学生なんだ。その子が、自分より上の誰かを初めて知って、顔を真っ赤にして机に向かう。悔しさって、こんなにまっすぐな力になるんだと思った。うちにも、中学のとき、美術の時間に隣の席の子の絵を見て、帰り道にずっと黙っていた日がある。あの日の夕焼け色を、このコマを見て思い出した。
それでも、藤野はある日、ぱたんと描くのをやめてしまう。友だちに、いつまで絵なんか描いてるの、と言われるような空気の中で。ここも、うちには痛かった。続けることより、やめることのほうが、ずっと簡単で、ずっと静かなんだ。
そのあと、藤野は先生に頼まれて、京本の家に卒業証書を届けにいく。そこで初めて、ふたりは顔を合わせる。そこで何が起きたかは書かないでおく。ただ、帰り道が、さっきのスキップのコマなんだ。前のページと次のページで、藤野の顔がぜんぜん違う。ずっと一人で描いてきた人が、初めて誰かにちゃんと見てもらえた。それだけで、人はあんなふうに雨の中を跳ねられるんだと思った。
うちが好きなのは、そこから二人で描いていく時間。部屋にこもっていた子と、その子を外に連れ出す子。描く人と描く人が並ぶと、競うのとも、支え合うのとも少し違う、もっと不格好な形になる。見開きで、ふたりの並んだ背中が季節の中に置かれるページがあって、そこは若葉みたいな色に見えた。白黒の漫画なのに。
気をつけてほしいこと
後半、物語は大きく動く。ここは知らないまま読んだほうがいいから、帯もあらすじも見ないでほしい。つらい出来事が描かれるので、読む日の体調だけは選んだほうがいい。うちは読み終えたあと、しばらく何もできなかった。でも、最後のページの背中を見て、次の日もちゃんと机に向かえた。
誰に
- 何かを続けていて、ときどきやめたくなる人
- 昔いっしょに何かをつくった友だちがいる人
- 漫画をあまり読まない人にも。一冊で終わるから、夜のうちに読みきれる
いつ
雨の日に。窓に雨の音がしているときに、スキップのコマまでたどりついてほしい。
それから、試験や締め切りの前の晩にも。うちは卒業制作の提出の前の夜に読み返して、机の前に座り直した。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ルックバック |
| 作者 | 藤本タツキ |
| 発表 | 2021年7月(少年ジャンプ+で公開された読み切り) |
| 単行本 | 集英社・全1巻 |
近い気持ち
会では、みんなに「いちばん長く見ていたコマ」を一つずつ挙げてもらった。スキップのコマが三人、練習の背中が四人。残りの人は、最後のページを挙げた。同じ一冊を読んでも、止まる場所が人によってちがう。それを確かめられるのが、うちはこの会でいちばん好きなところだ。
十一月の感情浴会(第43回)で、うちが進行をした回の作品。こはぜがまとめてくれた記録に、うちが最後まで声をつまらせていたことが、やさしく書いてある。二〇二一年のしずく大賞で漫画部門に選ばれたのも、この作品だった。うちが入る前のことだけど、そのとき票を入れた人たちの気持ちが、今ならよく分かる。
