長い黒髪で顔が半分かくれた女の子が、朝の教室で、あいさつを返そうとして、口だけ小さく動いている。
一巻のはじめのほうの、そういうコマたちを、うちはいまでもすぐに思い出せる。
三年前の春、しずく通信の選書にこの漫画を入れた。紹介は一行だけで、表紙も中身も桜色なんだ、と書いた。いま読み返すと、ちょっと照れる。でも、その一行で言いたかったことは、たぶん今も変わっていない。
この秋、一巻から読み直した。ちゃんと、書いておきたくなって。
貞子と呼ばれる子
主人公は、高校一年生の黒沼爽子。見た目が暗くて、子どものころから「貞子」と呼ばれている。本人は、人の役に立ちたくて、みんなと仲良くしたくて、毎日まじめに生きているのに。話しかけると怖がられるし、目が合うと謝られる。
そんな爽子に、ふつうに話しかけてくるのが、同じクラスの風早翔太。誰にでも明るくて、クラスの真ん中にいる男の子。爽子は、風早くんのことを、最初は恋じゃなくて、あこがれとして見ている。自分もあんなふうになりたい、って。
うちが好きなのは、爽子がとにかく、いちいち遠回りをするところ。何か言われるたびに、相手の言葉を何度も考えて、結局ぜんぜん違う意味に受け取ったりする。読んでいて、……それ、ちがうよ、と何回も言いたくなる。でも、その遠回りのひとつひとつが、爽子にとっては大事な一歩なんだ。
恋より先に、友だち
この漫画、恋の話だと思って読みはじめると、たぶん最初は少し驚く。
一巻から二巻のあいだで、いちばん心が動くのは、爽子に友だちができるところだから。
クラスの吉田千鶴と、矢野あやね。はじめは、爽子のことをちょっと面白がっているだけの二人。ところが、あるうわさが原因で、三人の関係がこじれそうになる。そのとき、爽子がとった行動と、二人がそれに返したもの。……うちは、見開きのところで一回本を閉じた。三年前も閉じたし、今回も閉じた。
友だちってこうやってできるんだ、というのを、こんなに一コマずつ見せてくれる漫画は、あんまりない。爽子が誰かに本当の気持ちを言えるまで、コマとコマのあいだに、どれだけの勇気が詰まっているか。
もちろん、恋の話も、ちゃんとときめく。風早くんと爽子の距離は、本当にゆっくり、若葉が一枚ずつ開くみたいに近づいていく。じれったいのに、急いでほしくない。この二人については、そういう気持ちで最後まで読んだ。三十巻あるけど、長いと思ったことは一度もない。
途中からは、くるみちゃんや、ほかのクラスメイトたちの話も増えていく。恋のライバルとして出てきた子が、だんだん違う顔を見せてくれる。誰のことも、悪者のままにしない漫画なんだ。
秋に読み返したこと
三年前の春に選書に入れたときは、爽子と同じ、始まりの側にいた気がする。うちは、まだ学生だった。
今は、会社に入って三年目の秋。新しい人の輪の中で、最初の一言が出なかった日のことを、ちょっと思い出しながら読んだ。あいさつひとつで、その日がまるごと明るくなる。それを、うちは爽子に、もう一回教えてもらった。
三年前は、風早くんと爽子のほうばかり見ていた気がする。今回は、爽子の横にいる千鶴とあやねを見ていた。爽子のためにまっすぐ怒る千鶴。言われる前に気づいてしまうあやね。……あんな友だちが職場にもいたらいい、と思いながら読んで、途中で、うちが誰かのあやねになればいいんだ、と思い直した。
浴びてほしいのは、新しい場所で、まだうまく話せていない人。誰かに誤解されたままになっている人。それから、恋の漫画は照れくさいけど、友だちの話なら読める人にも。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 君に届け |
| 作者 | 椎名軽穂 |
| 連載 | 集英社「別冊マーガレット」(2017年まで) |
| 巻数 | 全30巻 |
| アニメ | 2009年からテレビアニメが放送 |
秋に読んでも、やっぱり桜色だった。しずくは四つ。
