ラルム / 作品の記録

2021.12.05媒体 小説記録 鹿の子

たった一行で、島の見取り図が書き換わる 綾辻行人『十角館の殺人』

最初の頁に戻った
『十角館の殺人』の表紙
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なぜ筆者は、ある一行を読んだあと、本を閉じるより先に、最初の頁へ戻ってしまったのだろうか。

答えは単純で、自分がそれまで歩いてきた廊下が、本当はどこにつながっていたのかを、どうしても確かめずにいられなかったからだと思う。『十角館の殺人』は、そういう読み方を読者に強いる小説である。

島と、陸と

大学のミステリ研究会の仲間七人が、春休みに、ある孤島を訪れる。島には、十角形をした奇妙な館が建っている。半年ほど前、この島では、館を建てた建築家とその周りの人々が亡くなる事件が起きていて、それ以来、島は無人になっていた。

七人は、互いを海外の有名な推理作家の名前で呼び合っている。エラリイ、カー、ルルウ、ポウ、アガサ、オルツィ、ヴァン。この呼び名のせいで、読者は最初、誰が誰なのかを覚えるのに少し苦労するだろう。筆者も、最初の数十頁は、表紙の裏に鉛筆で人物の一覧を書きながら読んだ。

ところで、この小説は島の上だけでは進まない。同じころ、本土では、元部員の青年のもとに、亡くなったはずの建築家の名前で一通の手紙が届く。青年は、その手紙の意味を探り始める。

島の章と、本土の章が交互に置かれる。島では、外と連絡の取れない七人のあいだで、やがて一人、また一人と事件が起きていく。本土では、手紙をきっかけに、半年前の事件のほうへ、少しずつ調べが進んでいく。読者はこの二つの場所を行き来しながら、頭の中で一枚の見取り図を組み立てていくことになる。

心が動いた場所について

結末には一切触れない。これは筆者が会の中で最初に決めた書き方でもあり、この小説では特に守らなければならないと思う。

そのうえで言えるのは、この小説には、読者の見取り図を一瞬で書き換える一行がある、ということだ。

その一行は、派手な場面の中に置かれているわけではない。むしろ静かな、何気ない場所にある。だからこそ、読んだ瞬間、筆者はしばらく意味が分からず、同じ行を二度読んだ。そして三度目で、背中にすっと冷たいものが走った。十角形の館の、どの部屋の扉を開けても、同じ廊下に出てしまうような、あの奇妙な感覚である。

驚きは、それ一回で終わらない。最初の頁に戻って読み返すと、それまでただの描写だと思っていた文が、まったく違う意味を持って立ち上がってくる。筆者はこの再読のほうに、むしろ強く心が動いた。

しずくを四つにしたのは、驚きの大きさでいえば五つでも足りないが、驚きの前の数十頁で、人物の名前に慣れるまでの手間があるからである。そこを越えれば、あとは一気に運ばれる。

書かれた時代のこと

この小説が世に出たのは一九八七年で、作者の最初の長編だった。作者自身も、大学のミステリ研究会に所属していたという。登場人物たちの、少し気取った会話や、仲間うちだけで通じる冗談の空気には、その実感がにじんでいるように思う。

携帯電話もない時代の話である。島から外へ連絡する手段がないという設定は、いまの読者には少し遠く感じられるかもしれない。けれど筆者には、その不便さこそが、この小説の見取り図を支える太い柱に見えた。連絡が取れないからこそ、島の七人も、本土の青年も、それぞれ手持ちの情報だけで考えるしかない。読者も同じ条件に置かれる。

誰に

推理小説を読んだことがない人にこそ、すすめたい。この作品を最初に読めた人は、少しうらやましいと思う。

逆に、推理小説を読み慣れた人にも。結末を先に知らないかぎり、たぶん同じ場所で声が出る。

ひとつ確かなのは、この本を読む前に、感想や評判をあまり調べないほうがよい、ということだ。

いつ

外に出られない雨の日か、ひとりの週末に。途中で閉じると、見取り図が頭の中で崩れてしまうので、半日ほど空けておくのがよいだろう。冬の夜、暖かい部屋で読むのも向いている。孤島の冷たい空気との落差が、ほどよく効く。

作品データ

項目 内容
作品名 十角館の殺人
作者 綾辻行人
媒体 小説
発表 1987年9月(講談社ノベルス)
そのほか 作者の最初の長編。講談社文庫に新装改訂版あり

近い気持ち

十月の感情浴会(第18回)で、筆者の進行で取り上げた。記録は灯が書いている。会では全員が読み終えてから集まったが、誰がどの頁で気づいたかを言い合うだけで、一時間が過ぎた。

(記録:鹿の子)

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