上映時間は百二十四分。描かれるのは、ある二人の五年間だ。
一分あたり、半月とすこし。その計算をしたのは、観終えた帰りの電車の中だった。
始まりは、終電を逃した夜
大学生の麦と絹は、終電を逃した夜に駅で出会う。好きな本も、好きな映画も、好きな漫画も、ほとんど同じだった。履いている靴まで同じだった。
映画の前半は、二人の「同じ」が一つずつ見つかっていく時間だ。見つかるたびに、二人の顔がゆるむ。観ている僕の顔も、たぶんゆるんでいた。
二人は川の見える部屋で暮らし始める。パンを買い、散歩をし、同じ漫画の新しい巻を一緒に待つ。ここまでは、恋というより、同じ設計図を持った二人の共同作業に見える。
ずれ始める歯車
映画の冒頭で、二人がもう一緒にいないことは示されている。だから、これは終わりに向かう話だ。ネタばれにはならない。
問題は、どこから狂ったのか、だ。
大きな事件は起きない。浮気も、暴力もない。麦が就職する。忙しくなる。本を読まなくなる。絹が好きなものの話をしても、麦は疲れた顔で聞き流すようになる。
要するに、同じ設計図で組んだはずの骨組みが、一本ずつ、ほんの数ミリずれていく。
この映画は、そのずれを台詞で説明しない。代わりに、画面の端に置く。
二人の部屋に積まれた本の山が、いつのまにか片側だけ減っている。好きだった漫画の続きの巻を、片方だけが買っている。同じ場所で同じものを食べているのに、片方だけがスマホを見ている。僕はそういう細部を見つけるたびに、胃のあたりが少し冷えた。
設計図が同じであること
前半の二人を見ていて、僕は少し意地の悪いことを考えていた。
好きなものが全部同じ、というのは、本当にいいことなのか。同じ設計図で組んだ二つの建物は、同じ揺れで、同じ場所にひびが入る。違う設計図なら、片方が崩れても、もう片方が支えられるかもしれない。
この映画は、その問いに答えを出さない。ただ、二人が「同じ」を確かめ合うときの、あの嬉しそうな顔を、とても丁寧に撮っている。だから、あとでずれが始まったとき、観ている側は、前半の顔を思い出して、よけいに冷える。
僕がいちばんきしんだ場面
麦が好きだったものについて、疲れた顔で、もう分からなくなったと言う場面がある。台詞そのものは書かない。
責める映画ではない。麦が悪いわけでも、絹が悪いわけでもない。働くこと、食べていくこと、大人になること。その一つ一つは正しい。正しい部品を積み重ねた結果、建物が傾く。その構造が、僕にはいちばん怖かった。
恋愛映画を観て、ぞくっとしたのは初めてだった。
最後のこと
最後の場面は、冒頭とつながっている。何が起きるかは書かない。
ひとつだけ言うと、あの場面の二人は、僕が思っていたより大人だった。僕はそこで、少しだけ救われた。
誰に
終わった恋を、まだどこかで数えている人に。「どこで間違えたか」を探し続けている人は、この映画で、間違いがどこにもなかった可能性に出会う。
好きなものの話ができる相手が、最近いない人にも。前半のゆるんだ顔を、思い出すことになる。
いつ
失恋した夜は、正直すすめない。少し時間が経ってからがいい。
ひとりの週末の夜。部屋の明かりを落として観る。観終えたら、昔よく聴いた音楽を一曲だけ流すといい。二人がそうしていたように。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 花束みたいな恋をした |
| 監督 | 土井裕泰 |
| 脚本 | 坂元裕二 |
| 出演 | 菅田将暉、有村架純 |
| 媒体 | 映画 |
| 公開 | 2021年1月 |
| 上映時間 | 124分 |
近い気持ち
五月の感情浴会(第13回)で取り上げた。記録ははるまきが書いている。まだ映画館で上映していたので、それぞれ観てきてから画面越しに話した。僕は会のために、平日の昼にもう一度観に行った。二回目のほうが、画面の端がよく見えた。
(記録:ロク)
