犯人を見つけることが、そのまま、誰かを見捨てる人を決めることになるとしたら、人はそれでも謎を解こうとするだろうか。
この小説は、その問いを、読者の目の前に置いたまま、最後まで一度も片づけてくれない。
地下三階の見取り図
語り手の柊一は、大学時代の友人たちと、従兄の翔太郎とともに、山奥にある地下建築を訪れる。誰が何のために造ったのか分からない、地下三階まである古い施設で、仲間うちでは「方舟」と呼ばれている。途中で道に迷った家族連れも加わり、その夜、施設の中には十人が泊まることになる。
夜明け前、大きな地震が起きる。
出入り口は岩でふさがれ、地下からは水が湧き出してくる。水位は少しずつ上がり、およそ一週間で施設全体が沈むらしい。出口をふさぐ岩を動かす方法はある。ただし、その仕掛けを動かすには、誰か一人が地下に残らなければならない。残った一人は、助からない。
そして、その状況の中で、殺人が起きる。
残された者たちは、ある結論に行きつく。犯人こそが、地下に残るべきではないか、と。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 方舟 |
| 作者 | 夕木春央 |
| 媒体 | 小説 |
| 発表 | 2022年9月(講談社) |
筆者が考え込んだこと
ここから先は、推理小説としての筋にはできるだけ触れずに書く。
筆者がこの小説で最初に心を動かされたのは、謎解きの面白さよりも、登場人物たちの足もとの冷たさだった。水は毎日、確実に上がってくる。見取り図のどの部屋が、いつ水に沈むのか。その計算を、登場人物たちも読者も、頭の片隅でずっと続けることになる。
ところで、この状況で謎を解くことには、奇妙なねじれがある。ふつうの推理小説なら、犯人を見つけることは正しいことで、読者は探偵の側に立って安心して頁をめくれる。ところがこの小説では、犯人を見つけた瞬間、その人を水の底に置いていくことが決まってしまう。翔太郎が推理を進めるたびに、筆者は探偵の側に立っている自分が少し怖くなった。
謎そのものは、とてもきちんと組み立てられている。手がかりは読者の前に公平に並べられていて、注意深く読めば、筆者にも途中まではたどれた。途中までは、である。
地下の暮らし
もうひとつ、この小説で印象に残ったのは、閉じこめられた人々の、妙に具体的な暮らしぶりである。
限られた食料をどう分けるか。どこで眠るか。誰と誰が一緒に見回りをするか。ふだんなら気にもとめないような細かな決まりごとが、この地下では一つ一つ、人と人との関係を変えていく。筆者は、推理の手がかりを探すつもりで読みながら、いつのまにか、自分ならこの中の誰の隣で眠るだろうかと考えていた。
疑いは、そういう生活の隙間から入りこんでくる。見取り図の上では廊下一本の距離でも、心の距離はもっと遠い。
最後のこと
結末については何も書かない。
ひとつ確かなのは、この小説の本当の寒気は、謎が解けたあとにやってくる、ということだ。筆者は最後の数頁を読み終えて本を閉じ、そのまましばらく、部屋の暖房の音だけを聞いていた。背中が冷えてきたのは、閉じてから数分後だった。
しずくを三つにしたのは、読んでいるあいだの心の動きより、閉じたあとの冷たさのほうが大きい作品だからだ。数で言うとそうなるが、忘れられなさで言えば、この一年に読んだ本の中でいちばんかもしれない。
誰に
推理小説が好きな人には、言うまでもなく。
それよりも、正しいことをしているはずなのに、どこか後ろめたさが消えない、という経験のある人に読んでほしいと思う。この小説は、その後ろめたさの形を、地下の見取り図として見せてくる。
いつ
眠れない冬の夜に、一気に。途中で閉じると、水位だけが頭の中で上がり続けて、かえって眠れなくなるだろう。筆者は、読み始めたのが夜の九時で、閉じたのは二時過ぎだった。
ひとりの週末に読むなら、読み終えたあとに誰かと話せる予定を、翌日に入れておくのがよいと思う。
近い気持ち
ところで、この本を会に持ちこんだのは筆者である。出てからひと月ほどの本だったが、読み終えた人から順に、早く話したいと連絡が来た。その夜の様子は、オトが記録にまとめてくれた。
(記録:鹿の子)
