ラルム / 作品の記録

2022.07.24媒体 漫画記録 ぬか

卵ひとつの重さを、十五巻かけて量りなおす 荒川弘『銀の匙 Silver Spoon』

卵を割る前に手が止まった
『銀の匙 Silver Spoon』の表紙
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冷蔵庫から卵を一つ取り出して、わたくしは割る前にしばらく手のひらにのせておりました。

朝ごはんの卵かけごはんです。毎朝やっていることなのに、その日は、この卵がどこから来たのかを考えずにはいられなかった。前の晩、荒川弘さんの『銀の匙 Silver Spoon』を、一巻から読み返していたからです。

農業高校の、最初の夏

主人公の八軒勇吾くんは、札幌の進学校に通うはずだった少年です。勉強の競争に疲れ、家からも離れたくて、寮のある北海道の農業高校に入ります。牛や豚や鶏を育てる実家の子どもたちに囲まれて、ひとりだけ、将来の夢も、ここへ来た理由も、はっきり言えない。

入学してすぐの実習で、八軒くんは、鶏の卵がどこから産まれてくるのかを知って、たいへんな衝撃を受けます。わたくしも一緒に衝撃を受けました。知識としては知っていたはずなのに、絵で見せられると、手の中の卵が急に生きものの一部に思えてくる。

そこから先の八軒くんは、ずっと戸惑っています。朝は暗いうちから起きて牛舎の掃除、授業のあとは部活で馬の世話。汗だくで、泥だらけで、それでも、とれたての牛乳や、自分たちで育てた野菜を口にするたびに、目の色が少しずつ変わっていくのです。

同級生の御影アキさんは、実家が牧場をしている女の子で、馬が大好きです。八軒くんは、彼女の家で夏休みの手伝いをすることになり、朝の搾乳から夜の片づけまで、くたくたになるまで働きます。一日の労働のあとに出てくる、とれたての牛乳。わたくしは、その食卓の絵を、ずいぶん長いあいだ眺めておりました。体を動かしたあとのひとくち目がどれほどおいしいかを、八軒くんの顔が教えてくれます。

学校の敷地に眠っていた古い石窯を使って、みんなでピザを焼く話もあります。農業高校らしく、材料の出どころがみんなの顔見知り、というのがおかしくて、うらやましい。焼き上がったピザを、みんなが熱いうちにほおばる場面で、わたくしは白いごはんではなく、めずらしくパンが欲しくなりました。

名前をつけた子豚のこと

この漫画でいちばん重たいのは、八軒くんが実習で世話をする子豚の話です。いずれ食べられるために育てられる豚に、彼はわざと食べものの名前をつけて、毎日世話をします。

その子豚がどうなるのかは、ここには書きません。ただ、八軒くんが最後に出す答えは、泣いて逃げることでも、割り切って忘れることでもありませんでした。わたくしは、その答えのところで本を置いて、台所へ行き、ぬか床をかき混ぜました。考えがまとまらないとき、わたくしはそうするのです。

食べものが命からできている、ということを、この漫画は説教の形では教えません。笑わせて、疲れさせて、おなかを空かせてから、そっと手のひらにのせてくる。卵ひとつの重さを、読むたびに量りなおさせる漫画でありました。

それから、この漫画は、夢が見つからない人の話でもあります。まわりはみんな、家を継ぐ、獣医になる、と言える。八軒くんには、それがない。けれど、目の前の仕事を一つずつこなしているうちに、自分にできることの輪郭が見えてくる。何かを始めたばかりで迷っている人には、そこが効くと思います。

浴びるのは、夏の朝に。まだ涼しいうちに一巻を開いて、読み終えたら、卵をひとつ割ってみてください。新しい生活を始めて、何のためにここにいるのか分からなくなっている人にも。

項目 内容
作品名 銀の匙 Silver Spoon
作者 荒川弘
連載 小学館「週刊少年サンデー」(2011年〜2019年)
巻数 全15巻

近い気持ち

(記録:ぬか)

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