コマいっぱいに、白い指が描かれている。人差し指が、少しだけ曲がって、何かの形を作りかけている。顔は、コマの外。
その指が何を言おうとしているのか、うちには分からなかった。分からないのに、どきっとした。
一月の、雪の予報が外れた土曜の朝。こたつで一巻から読み直した。読み終わるころには、自分の指先ばかり見ていた。
主人公の糸瀬雪は、耳が聞こえない大学生。話すときは手話を使う。手話が分からない相手とは、スマホに文字を打って見せたり、口の動きを読んだりしている。
電車の中で
最初の話の、電車の場面が好き。
雪は、外国から来た旅行者に道をたずねられる。ガイドブックを指さして、何か聞いてくる。でも雪には声が聞こえないし、手話も通じない。困って、固まってしまう。
そこに入ってきて、旅行者とすらすら話しはじめるのが、同じ大学の先輩、波岐逸臣。旅が好きで、いくつもの国の言葉が話せる人。
逸臣は、雪の耳が聞こえないと分かっても、態度が変わらない。気をつかいすぎないし、特別扱いもしない。ただ、知らない国の言葉と同じように、雪の言葉にも興味を持つ。
うちは、ここで一回、本を閉じた。
逸臣は、雪に、世界は広いという話をよくする。行ったことのある国のこと、知らない言葉のこと。雪にとってそれは、聞こえない世界のさらに外にある、もうひとつの世界の話なんだと思う。聞こえないことを、世界が小さいことにしない。逸臣の話し方には、そういうところがある。
誰かの「分からない」を、困りごとじゃなくて、知らない国みたいに面白がれる人。そういう人を好きになる気持ちは、すごく分かる。雪の頬の色が、次のページから、ほんのり桜色に変わっていく。
逸臣は、少しずつ手話を覚えていく。覚えたての、ぎこちない手の形。それを見た雪の顔。コマとコマのあいだで、二人の距離が一文字ぶんずつ縮まっていく感じがする……。
声のない見開き
この漫画は、雪の目で見た世界の描き方が、とても静か。
にぎやかな場所にいても、雪のまわりだけ、音がないように見える。人の口が動いているのに、その声は雪に届いていない。読んでいるうちに、こっちまで少し耳をすますみたいになる。
だからこそ、手話で話している場面が、とてもあたたかく見える。雪の幼なじみで、手話ができる桜志という男の子がいる。雪と彼が手話でやりとりするとき、雪の表情はいちばん楽になる。逸臣とは違う、長い時間をかけてできた近さなんだ。この三人の関係が、巻が進むにつれて少しずつ動いていく。どう動くかは、読んでたしかめてほしい。
雪と逸臣が、向かいあって手で話す場面。読んでいると、文字より先に、手の形と目の動きに目がいく。うちは手話ができないのに、何を言っているのかが分かる気がしてくる。声より近いって、こういうことなんだ、と思った。
読み終えてから、指文字の表を調べて、自分の呼び名を指でつくってみた。く、さ、も、ち。たった四つの形なのに、指がうまく曲がらない。鏡に映った手は、ぎこちなくて、覚えたての逸臣の手と同じだった。雪が毎日、どれだけたくさんの形を使って話しているのか。少しだけ分かった気がした。
うちは冬の早い日暮れが苦手で、毎年この時期は、帰り道が少し心細い。今年は会社に入って二回目の冬。年末から仕事のことで頭がいっぱいで、人と話すのがおっくうな日が多かった。そういう日に、雪と逸臣の手のやりとりを読むと、言葉って、口から出るものだけじゃないんだ、と思い出せる。
ときめきたい日にも、誰かにやさしくしたい日にも。冬の休日の朝、あたたかい飲みものを横に置いて、一巻ずつ読むのがいいと思う。読み終えたら、しばらく自分の指先を見てしまうはず。うちは、会ってちゃんと話したい人の顔が、何人か浮かんだ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ゆびさきと恋々 |
| 作者 | 森下suu |
| 連載 | 講談社「デザート」(2019年から連載中) |
| アニメ | 2024年1月からテレビアニメが放送 |
