夜勤に出る前の、夕方の六時。
部屋の明かりをつけずに、再生した。
窓の外は、もう暗い。
十一月は、出かける時間に夜が来る。
ピアノと、ベースと、ドラム。
三人だけ。
歌はない。
ニューヨークの小さな店で、一晩に録った演奏。
1961年6月25日。
日曜の夜だったらしい。
元のアルバムは、六曲。
手もとのCDには、同じ夜の別の演奏が、後ろに足されている。
最初は、並びの六曲だけを聴いた。
一曲目の、客席
ピアノのうしろで、ずっと音がしている。
グラスが触れる音。
誰かの話し声。
小さな笑い。
曲が進んでも、それは消えない。
ステージの三人は、店の音の上に、そっと音を置いていく。
最初は、うるさいと思った。
二度目から、その音がないと落ち着かなくなった。
六十五年前の、知らない誰かの日曜の夜に、
少し遅れて座っている感じ。
二曲目から
表題の曲は、二曲目。
デビイは、ピアノの人の姪の名前だという。
小さな子のための、三拍子の曲。
二曲目から、ベースの音が前に出てくる。
ただ低い音を支えているのではなく、
ピアノと話している。
言い返したり、うなずいたり。
ふたりの会話の横で、
ドラムが、ブラシで静かに床を掃いている。
肩が、一段下がった。
夕方の部屋が、少し広くなった。
三曲目から先
三曲目からは、ゆっくりした曲が多い。
最後の一曲だけ、少し速い。
どの曲でも、三人は、相手の音を最後まで聴いてから、自分の音を置く。
誰も、前に出すぎない。
誰も、引っこみすぎない。
夜勤の休憩室で、仲のいい同僚と黙って並んでいるときの感じに、少し似ている。
話さなくても、相手がそこにいるのが分かる。
それだけで、夜が少し短くなる。
この夜のあと
このベースの人は、この夜から十日あまりあとに、車の事故で亡くなっている。
それを知ったのは、何度か聴いたあとだった。
知ってから聴くと、
ベースが前に出てくるたびに、少し胸がつかえる。
でも、演奏の中の三人は、何も知らない。
客席の人も、何も知らない。
グラスの音は、ずっと楽しそうだ。
さびしさは、音の中にはない。
音の外に、あとから聴く側が持ちこんでいる。
そのことが、かえって、さびしい。
六曲目が終わる。
CDは、そのまま同じ夜の次の演奏へ進む。
止めた。
並びの六曲で、いったん店を出たかった。
それから、着がえて、夜勤に出た。
駅までの道で、街灯がひとつ、点滅していた。
耳の奥で、まだ二曲目の三拍子が鳴っていた。
浴びるなら、夜が早く来る季節の、夕方から夜にかけて。
明かりは、つけなくてもいい。
一曲目の、最初の音から聴いてほしい。
飛ばさずに。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ワルツ・フォー・デビイ(Waltz for Debby) |
| 演奏 | ビル・エヴァンス(ピアノ)、スコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラム) |
| 録音 | 1961年6月25日(ニューヨークの店での実況) |
| 発表 | 1962年 |
| 曲数 | 6曲(CDは同じ夜の別の演奏を追加) |
近い気持ち
(記録:オト)
