畳の上に、中学生の女の子がひっくり返っている。顔はまっ赤で、目がすわっている。まわりで、年上の女の人が三人、あわてている。
『海街diary』の一巻で、うちがいちばん好きなのは、実はこのコマなんだ。
鎌倉の古い家に、三人の姉たちが暮らしている。看護師の長女の幸、お酒が好きな次女の佳乃、のんびりした三女の千佳。家を出ていった父親が、遠い町で亡くなったと知らせが来て、三人は葬儀に行く。そこで、会ったことのなかった腹違いの妹、すずに出会う。父を看取ったのは、中学生のすずだった。
帰りぎわ、長女の幸は、すずに一緒に暮らさないかと声をかける。すずは、鎌倉にやってくる。ここまでが、物語の入り口。
梅酒のコマ
すずは、いい子なんだ。いい子すぎるくらい。
新しい家でも、新しい学校でも、まわりに気をつかって、自分の気持ちを言わない。姉たちにも、どこか遠慮している。読んでいて、うちはずっと、すずの背中がかたいのが気になっていた。
そんなある夏の日、庭の梅の実で漬けた梅酒を、すずが飲んでしまう。薄めてあるつもりだったのに、じつはお酒の好きな次女が、焼酎をたっぷり足したものだった。すずは酔っぱらって、ひっくり返って、それまで一度も口にしなかった、前の家族への怒りを、ぜんぶぶちまける。
冒頭のコマは、そこなんだ。
笑っていいのか、泣いていいのか、うちは分からなかった。たぶん、両方でいいんだと思う。すずが初めて、いい子じゃない顔を姉たちに見せた。姉たちは、それを怒らずに受けとめた。コマとコマのあいだで、四人の距離が、ぐっと縮まるのが分かるんだ。
梅の実って、青いまま漬けて、時間をかけて琥珀色になる。すずの顔が、あのコマのあたりから、少しずつ色づいていく気がした。
二日目の夜
この夏、うちは一滴舎の合宿に行った。信州の貸し別荘に、二泊。来られたのは凪さん、ヤギさん、ぬかさん、こはぜさん、うちの五人。
一日目は、長いアニメをみんなで最後まで観た。二日目の夜、ほかの人たちがゲームで盛りあがっているあいだ、うちは縁側に出て、持ってきた『海街diary』を開いた。春が来るたびに一巻から読み返している漫画だけど、夏に読むのは初めてだった。
山の夜は、思っていたより涼しかった。虫の声がして、うしろの部屋から笑い声がする。
そこで梅酒のコマまで来たとき、うちは本を閉じて、しばらく部屋のほうを見ていた。
去年の秋に会に入ったとき、うちはたぶん、すずみたいだったと思う。画面の向こうの人たちは、みんな何年も前から知り合いで、うちだけがあとから来た。感想を言うとき、ちょっと遠慮していた。
でも、二日間同じ家にいて、同じごはんを食べて、夜中まで同じ画面を観ていたら、いつのまにか遠慮を忘れていた。大声で笑っていた。……梅酒は飲んでないけど。
縁側から戻ると、ぬかさんが、しらすの出てくる場面の話をしてくれた。去年の夏の選書で、この漫画を選んだのはぬかさんだった。うちが入る前の号だ。同じ漫画を、別々の季節に、別々の場所で読んでいた人が、隣にいる。それがなんだか、きょうだいみたいでおかしかった。
この漫画は、大きな事件が起きる話じゃない。誰かが亡くなったり、誰かが恋をしたり、誰かがどこかへ行ったり。季節がひとつずつめぐって、そのたびに四人が少しずつ変わる。夏に読むと、夏の話がいちばんまぶしく見える。春に読むと、春の話がいちばんしみる。どの季節に開いても、その季節の見開きが待っている漫画なんだ。
吉田秋生、全9巻。小学館「月刊flowers」で2006年から2018年まで連載。一巻の題は「蝉時雨のやむ頃」。夏に読むなら、ここからでいい。
近い気持ち
- ほどけたい……梅酒でひっくり返った、すずの顔
- 優しくなりたい……怒らずに受けとめる、三人の姉
- 誰かに会いたくなりたい……同じ家で、同じごはんを食べた人たち
新しい場所で、まだ遠慮している人に渡したい一冊。うちは、合宿から帰った日に、この一巻をもう一度、最初から読んだ。
