読み手の最初の息づかいが、柱時計の振り子のように、規則正しく落ち着いていたのです。
秋の夜、雨戸を閉めた部屋で、ぼくは中島敦の『山月記』の朗読を聴きました。三十分ほどの長さです。高校の国語の教科書で一度読んだきりでしたから、目で読んだのは、もう何年も前のことになります。
目で読んだときのこと
教科書で読んだとき、ぼくはこの話が少し苦手でした。漢字が多く、言い回しが硬く、一行ごとに注を見ないと意味がとれない。物語を味わうより先に、ことばの森で迷ってしまっていたのです。
耳で聴くと、それがまったく違いました。
硬いと思っていた言い回しが、声に乗ると、ふしぎなほど滑らかに流れていく。ひとつの文が、太鼓の拍のように、決まった長さで打たれて、次の文へと受け渡されていきます。意味をひとつずつ確かめなくても、響きのほうが先に、耳の奥で話の形をつくっていくのです。
どんな話か
昔の中国に、李徴という男がいました。若くして役人の試験に受かるほどの才がありながら、人の下で働くことをよしとせず、詩人として名を残そうとして職を辞します。けれど、詩で身を立てることはかなわず、暮らしに困り、ふたたび低い役職に戻ったのち、ある夜、ゆくえが分からなくなります。
一年ほどのち、李徴の古い友、袁傪が、仕事の旅の途中で山道を通りかかります。そこで、草むらから一匹の虎が躍り出て、しかし、すぐにまた草むらへ身を隠す。そして、草むらの中から、人の声が聞こえてくるのです。
声が変わる一瞬
ぼくが息をのんだのは、まさにその場面でした。
それまで地の文を淡々と読んでいた読み手の声が、草むらの中の声になったとたん、ほんの少し低く、くぐもったのです。人の声なのに、どこか人でないものの喉を通ってきたような響き。障子一枚向こうから、誰かに呼びかけられたような心地がしました。
袁傪は、その声が旧友のものだと気づきます。そして、姿を見せないまま、李徴はなぜ自分がこうなったのかを語りはじめる。
その語りの中身には触れないでおきます。ただ、それは、誰かのせいにする話ではありませんでした。自分の中の弱さと、自分の中の驕りと。そのどちらからも目をそらさずに、ひとつずつ言葉にしていく。聴いていて、ぼくは何度か、自分のことを言われているような気がして、耳をふさぎたくなりました。
夜明けのこと
話の終わりに、夜が明けます。
結末は書きません。ただ、朗読で聴くと、夜明けの場面の、ほんのわずかな間の取り方に、胸をつかまれます。読み手が、そこで一度だけ、少し長く息を吸うのです。その間に、空の色が変わるのが見えたような気がしました。
聴き終えて雨戸を開けると、外はまだ暗く、どこかで虫が一匹だけ鳴いていました。
浴びてほしい人
- 自分の才能や、自分の意地の張り方について、ひとりで考えこむ夜がある人
- 教科書で読んで、よく分からなかった人。耳で聴くと、まるで別の話に聞こえます
- 短い時間で、しっかりと心を持っていかれたい人
浴びる時間
秋の夜長に。眠れない夜の、部屋を暗くしたあとがいいでしょう。三十分ほどで終わります。聴き終えたら、できればすぐに眠らずに、少しだけ夜明けの場面のことを考えてみてください。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 山月記 |
| 作者 | 中島敦 |
| 発表 | 1942年 |
| 聴いたもの | 朗読(読み手の名前は書きません) |
この作品は、会では取り上げていません。去年の六月の会(第38回)で、夏目漱石の『夢十夜』の朗読をみんなで聴いたあと、ぼくは古い短編の朗読をひとつずつ探して聴くようになりました。これは、その中でいちばん長く耳に残った一篇です。
