ラルム / 作品の記録

2024.08.25媒体 漫画記録 凪

将棋のルールを知らないまま、五巻で本を伏せた 羽海野チカ『3月のライオン』

五巻で本を伏せた
『3月のライオン』の表紙
Amazon で見る

中学生のひなたが、泣きじゃくりながら、それでも自分のしたことは間違っていないと言い切るところ、あそこで自分は本を持ったまま動けなくなって、気づいたら五巻を胸の上に伏せて、天井を見ていたんです。

いじめられていた友だちをかばったら、次は自分が標的になった。その友だちは学校を去り、ひなたはひとりで教室に残される。家に帰ってきて、姉や零の前で、ぼろぼろ泣く。でも、後悔はしていないと言う。泣いているのに、言っていることだけは少しもぶれていない。

ここ、本当に、何回読んでも喉の奥が熱くなって、息が吸えなくなります。

そして、この場面でいちばん救われているのは、実はひなたではなく、それを聞いている零のほうなんです。

将棋が分からなくても大丈夫でした

主人公の桐山零は、中学生のうちにプロになった十七歳の棋士です。幼いころに家族を事故で亡くし、将棋の家に引き取られ、そこにも居場所をなくして、いまは川沿いのがらんとした部屋でひとりで暮らしている。勝っても負けても、帰る部屋は静かなままです。

自分は将棋のルールをほとんど知りません。駒の動かし方も、正直あやしい。それでもこの漫画は、最初から最後まで、盤の上で何が起きているかより、盤の前に座っている人の体のほうを描いてくれるので、ちゃんと分かるんです。背中が丸くなる、指がふるえる、対局のあとに立ち上がれなくなる。試合の最後の一周で足が止まりそうになる、あの感じとまったく同じでした。

零のまわりには、体の弱さを抱えながら、しつこいくらい明るく挑んでくるライバルがいて、胃を痛めながら指し続ける先輩がいて、とても遠くにいる名人がいる。将棋に全部を賭けている大人たちの顔が、どれも苦しそうで、どれもかっこいい。自分は外回りの仕事で、夏のあいだずっと汗だくで歩いているんですが、仕事帰りの電車でこの人たちの対局を読むと、なぜか自分の足まで少し軽くなりました。

川向こうの台所

零を救う場所は、川を渡った先の町にあります。

和菓子屋のおじいさんと暮らす三人のきょうだい、あかりさん、ひなた、モモちゃん。ひょんなことから零は、この家に夕ごはんに呼ばれるようになる。こたつがあって、猫が何匹もいて、大皿におかずが山盛りで、誰かがいつもしゃべっている。

零は最初、その温かさにうまく入っていけないんです。自分なんかがここにいていいのか、と思っている。読んでいるこっちも、ずっと背中がこわばっている。

それが、冒頭の五巻の場面でほどけます。ひなたが泣きながら言い切ったことは、昔の零が、いちばん誰かに言ってほしかったことだった。自分がかばってもらう側ではなく、誰かを守る側に立てるかもしれない。そう零が気づく瞬間、ページの上の空気がいっぺんに変わって、自分はそこで一回、本を伏せました。

救われる話だと思って読みはじめたら、救われた人が、今度は誰かを救いにいく話だった。そこが、この漫画のいちばん熱いところだと思います。

五月に草餅さんが『ハチミツとクローバー』の記録を書いていて、同じ作者なら、と手に取ったのが始まりでした。何年も前にアニメで少し観たことはあったんですが、漫画で読むと、コマの外の余白の静けさがまるで違いました。

項目 内容
作品名 3月のライオン
作者 羽海野チカ
連載 白泉社「ヤングアニマル」(2007年から)
単行本 2024年8月の時点で17巻まで(連載中)
アニメ テレビアニメ(2016年〜2018年)

近い気持ち

仕事で疲れきった夏の週末に、一巻から五巻までを一気に読むのがおすすめです。五巻を閉じたら、たぶん誰かに夕ごはんを作りたくなっています。自分はカップ麺しか作れないので、そのかわりに、実家に電話をしました。

作品の記録に戻る