まだ青い道を、歩いて帰る。
夜勤明けの耳で、一枚目から再生した。
街灯が、ひとつずつ消えていく時間。
車はほとんど通らない。
点滅する信号の下で、一曲目が始まった。
長く伸びる、電子の音。
やがてピアノと、息の音。
坂本龍一の、最後のアルバム。
十二曲。
曲の名前は、ほとんどが日付だけ。
録音した日の日付。
歌はない。
ピアノと、電子の音が少し。
少し長めの曲もあれば、
数分で終わる曲もある。
病気と暮らしながら、日記をつけるように録りためた音だという。
出たのは、本人の誕生日の一月。
その春に、亡くなった。
最初に聴いたときは、何も分からなかった。
曲というより、部屋の音に近い。
鍵盤を押す。
音が鳴って、消える。
消えたあとの静けさまで、録音されている。
そして、息。
ピアノの前に座っている人の、息の音が、ときどき入っている。
吸う音。
吐く音。
何曲目かから、その息が気になりはじめた。
音楽を聴いているのに、人がそこにいる、ということのほうが大きくなっていく。
夜明け前の帰り道で、それを聴いた。
自分の足音と、ピアノと、息。
三つの音が、ずれたまま重なっていた。
ある曲の途中で、ピアノの音が、少しだけ揺れる。
弾き直すでもなく、そのまま続いていく。
整えられていない音。
それを、そのまま残してある。
そのことに、胸のどこかがつかまれた。
うまく弾けた日だけじゃなく、
そうでない日の音も、日付をつけて置いてある。
帰り道の途中、コンビニの明かりの前を通った。
夜勤明けの自分の顔が、ガラスに映った。
ひどい顔だった。
でも、今日の日付の顔だった。
悲しい音楽、ではないと思う。
さびしい、とも少し違う。
日付の題名が、効いてくる。
この日に、この人は、この音を鳴らした。
それだけが書いてある。
何を思っていたのかは、どこにも書いていない。
だから、聴く側が勝手に想像する。
その日は晴れていたのか。
体の具合はどうだったのか。
想像しているうちに、自分の今日の日付のことも考えていた。
何もなかった一日。
それでも、日付はつく。
横断歩道の手前で、信号が青に変わった。
渡らなかった。
曲が終わるまで、ひとつ見送った。
家に着いて、窓のカーテンを半分だけ閉めた。
もう一度、最初の曲から。
部屋の中で聴くと、
外で聴いたときより、息の音が近い。
すぐ隣に、誰かが座っているくらいの距離。
夜勤のあいだ、誰とも話さなかった。
そういう日の終わりに、
言葉のない、誰かの息を聴いている。
それが、思っていたより、さびしくなかった。
しずくは三つ。
大きく揺れたわけではない。
張っていた糸が、夜明けと一緒に、少しだけゆるんだ。
次の夜勤の帰りにも、同じ一枚をかけた。
前の朝とは、止まった場所がちがった。
今度は、ピアノではなく、
曲と曲のあいだの、何も鳴っていない数秒で止まった。
日付と日付のあいだにも、
たぶん、同じように日々があった。
浴びてほしい人
- 眠れない夜に、言葉のない音がほしい人
- 夜勤や遅い仕事の帰り道を、ひとりで歩く人
- 大切な人を見送ったあと、にぎやかな音楽が聴けなくなっている人
浴びる時間
眠れない夜の、いちばん暗い時間より、少しあと。
空が青くなりはじめたころ。
部屋の窓を少し開けて、外の音と混ぜて聴くのがいい。
夏なら、虫の声と。
一曲ずつ、続けて。
シャッフルはしないほうがいい。
並びの順番に意味がある、と思うから。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 12 |
| 音楽 | 坂本龍一 |
| 発売 | 2023年1月 |
| 曲数 | 12曲(曲名は録音した日付) |
近い気持ち
六月の感情浴会(第74回)。
進行を担当した。記録は栞さん。
会の最後に、みんなで同じ曲をいっせいに再生して、終わるまで誰もしゃべらなかった。
画面の向こうで、それぞれの部屋の音がしていた。
いい夜だった。
