ラルム / 作品の記録

2026.07.19媒体 音楽記録 オト

題名は、日付だけ 坂本龍一『12』

信号をひとつ見送った
『12』の表紙
Amazon で見る

まだ青い道を、歩いて帰る。
夜勤明けの耳で、一枚目から再生した。

街灯が、ひとつずつ消えていく時間。
車はほとんど通らない。
点滅する信号の下で、一曲目が始まった。

長く伸びる、電子の音。
やがてピアノと、息の音。


坂本龍一の、最後のアルバム。
十二曲。
曲の名前は、ほとんどが日付だけ。
録音した日の日付。

歌はない。
ピアノと、電子の音が少し。
少し長めの曲もあれば、
数分で終わる曲もある。

病気と暮らしながら、日記をつけるように録りためた音だという。
出たのは、本人の誕生日の一月。
その春に、亡くなった。


最初に聴いたときは、何も分からなかった。
曲というより、部屋の音に近い。
鍵盤を押す。
音が鳴って、消える。
消えたあとの静けさまで、録音されている。

そして、息。
ピアノの前に座っている人の、息の音が、ときどき入っている。
吸う音。
吐く音。

何曲目かから、その息が気になりはじめた。
音楽を聴いているのに、人がそこにいる、ということのほうが大きくなっていく。

夜明け前の帰り道で、それを聴いた。
自分の足音と、ピアノと、息。
三つの音が、ずれたまま重なっていた。


ある曲の途中で、ピアノの音が、少しだけ揺れる。
弾き直すでもなく、そのまま続いていく。
整えられていない音。
それを、そのまま残してある。

そのことに、胸のどこかがつかまれた。
うまく弾けた日だけじゃなく、
そうでない日の音も、日付をつけて置いてある。

帰り道の途中、コンビニの明かりの前を通った。
夜勤明けの自分の顔が、ガラスに映った。
ひどい顔だった。
でも、今日の日付の顔だった。


悲しい音楽、ではないと思う。
さびしい、とも少し違う。

日付の題名が、効いてくる。
この日に、この人は、この音を鳴らした。
それだけが書いてある。
何を思っていたのかは、どこにも書いていない。

だから、聴く側が勝手に想像する。
その日は晴れていたのか。
体の具合はどうだったのか。
想像しているうちに、自分の今日の日付のことも考えていた。
何もなかった一日。
それでも、日付はつく。

横断歩道の手前で、信号が青に変わった。
渡らなかった。
曲が終わるまで、ひとつ見送った。


家に着いて、窓のカーテンを半分だけ閉めた。
もう一度、最初の曲から。

部屋の中で聴くと、
外で聴いたときより、息の音が近い。
すぐ隣に、誰かが座っているくらいの距離。

夜勤のあいだ、誰とも話さなかった。
そういう日の終わりに、
言葉のない、誰かの息を聴いている。
それが、思っていたより、さびしくなかった。


しずくは三つ。
大きく揺れたわけではない。
張っていた糸が、夜明けと一緒に、少しだけゆるんだ。

次の夜勤の帰りにも、同じ一枚をかけた。
前の朝とは、止まった場所がちがった。
今度は、ピアノではなく、
曲と曲のあいだの、何も鳴っていない数秒で止まった。
日付と日付のあいだにも、
たぶん、同じように日々があった。

浴びてほしい人

  • 眠れない夜に、言葉のない音がほしい人
  • 夜勤や遅い仕事の帰り道を、ひとりで歩く人
  • 大切な人を見送ったあと、にぎやかな音楽が聴けなくなっている人

浴びる時間
眠れない夜の、いちばん暗い時間より、少しあと。
空が青くなりはじめたころ。
部屋の窓を少し開けて、外の音と混ぜて聴くのがいい。
夏なら、虫の声と。

一曲ずつ、続けて。
シャッフルはしないほうがいい。
並びの順番に意味がある、と思うから。

作品データ

項目 内容
作品名 12
音楽 坂本龍一
発売 2023年1月
曲数 12曲(曲名は録音した日付)

近い気持ち


六月の感情浴会(第74回)。
進行を担当した。記録は栞さん。
会の最後に、みんなで同じ曲をいっせいに再生して、終わるまで誰もしゃべらなかった。
画面の向こうで、それぞれの部屋の音がしていた。
いい夜だった。

作品の記録に戻る