声が止んだあと、部屋の時計の秒針の音が、急に大きく聞こえました。さっきまで、そんな音がしていたことに、私は気づいていませんでした。
一晩だけ、順番を変えた
十月から、眠る前に『枕草子』の朗読を、一晩にひとつずつ聴いています。今夜は、その順番をいったん止めました。
こはぜさんと話していたときに、声で聴くなら、と名前が出たのが、太宰治の『駈込み訴え』でした。ひとりの男が、ずっとしゃべり続けるだけの短い作品です。目で読むより、耳で聴いたほうがこわい、と言われました。
その「こわい」が、どういうこわさなのか、知りたくなったのです。
ひとりの男の、訴え
男は、どこかへ駆けこんできて、「旦那さま」と呼ぶ相手に、訴えます。自分の仕える「あの人」のことを、申し上げます、と。
あの人がどれだけひどいか。どれだけ自分をないがしろにしてきたか。男は、息もつかずにまくしたてます。
けれど、少し聴いていると、様子がおかしくなってきます。悪口のすぐあとに、あの人がどれほど美しいか、どれほど自分が慕ってきたかが、同じ息で語られる。憎い、と言ったその口で、好きだ、と言う。言い終える前に、また憎いに戻る。
ある有名な物語を、裏切る側の口から語りなおした作品だと、聴き終えてから気づく人もいるかもしれません。男が誰なのかは、ここには書かずにおきます。
声で聴く、ということ
太宰治は、この作品を口で語って、それを人に書きとらせたと言われています。
そのせいでしょうか。朗読の声は、本を読んでいるというより、目の前で誰かが訴えているように聞こえました。読み手の息つぎが、ほとんどない。あっても、男が言葉を探して詰まるところだけ。
目で読むときは、ページの上で好きなところに戻れます。耳で聴くときは、戻れません。男の言葉の速さに、こちらの気持ちが引っぱられていく。憎いと好きのあいだを、一緒に何度も行き来させられる。
そのうちに、男の言うことが、少しずつ分かってしまうのです。分かってしまうことが、いちばんこわかった気がします。
終わったあと
最後の数行は、書きません。
声が止んだとき、私はしばらく、イヤホンを外せませんでした。耳の奥に、男の早口がにじんで残っていて、それが少しずつ沈んでいくのを待っていました。
好きなものを、好きなまま憎むことは、たぶん誰にでもあるのだと思います。ふだんは、その二つのあいだに長い時間があるので、気づかずにすんでいる。この作品は、その時間を、ひと息に縮めてしまう。だから、こわいのだと思いました。
明日の夜は、また『枕草子』に戻ります。千年前の、いいもの尽くしの声で、耳をすすぎたいと思っています。
浴びてほしい人
- 好きな人のことを、うまく嫌いになれなかったことのある人
- 太宰治は教科書でしか読んだことがない人
- 怪談ではない、人の声のこわさを味わいたい人
浴びる時間
眠れない秋の夜に。一度聴きはじめたら、途中で止めないでください。止めると、男の言葉の速さが途切れてしまいます。聴き終えたら、少し静かな音のものを、ひとつ。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 駈込み訴え |
| 作者 | 太宰治 |
| 発表 | 1940年(雑誌に掲載) |
| 聴いたもの | 朗読(読み手の名前は書きません) |
| 手もとの本 | 角川文庫『走れメロス』(文字で読み返すときに) |
近い気持ち
会では、まだ取り上げていません。こはぜさんの朗読の回で、いつか聴くことになったら、そのときは記録係として、なるべく静かに書き留めたいと思います。
