祖父の家の蔵で、小学六年生の男の子が古い碁盤の染みに気づいた、その次のコマで、盤の中から烏帽子をかぶった男の人がすうっと現れて、ヒカルにだけ話しかけてくるんです。
平安時代に帝の囲碁指南役だった藤原佐為という棋士の霊で、千年ものあいだ、もう一度碁を打ちたいという気持ちだけでこの世に残っていた人でした。取り憑かれたほうの進藤ヒカルは、碁のことなんて何ひとつ知らない、ゲームと駄菓子のことで頭がいっぱいの小学生です。
自分も、碁についてはヒカルと同じくらい何も知りません。石の置き方も、どちらが勝っているのかも、最後まで読んでもたぶん半分も分かっていない。それなのに、この漫画を読むと、対局の場面で手のひらに汗をかくんです。
碁を知らなくても
最初のうち、ヒカルは佐為に言われるまま石を置くだけでした。佐為が打ちたい、と言うから、しかたなく碁会所についていく。そこで出会うのが、同い年の塔矢アキラです。
アキラは、プロの父親のもとで育った、小学生なのにもうプロ並みに強い子で、そのアキラが、自分より何もできないはずのヒカルに負けてしまう。もちろん、打っていたのは佐為なんですが、アキラにはそれが分からない。分からないまま、アキラはヒカルを追いかけはじめます。
ここ、本当に、ずるい始まり方だと思いました。追いかけられているヒカル本人が、いちばん何も分かっていないんです。
でも、アキラの本気の目を見ているうちに、ヒカルの中で何かが変わっていく。佐為の打つ碁ではなく、自分の手で打ちたいと思うようになる。中学の囲碁部、院生、プロ試験と、ヒカルは少しずつ、自分の足で盤の前に座るようになっていきます。
自分は、この「自分の手で」のところで、いつも背中が熱くなるんです。リレーでバトンを待っていた人が、バトンなしで走りだしてしまうみたいな、あの前のめりの感じがあって、読んでいるこっちまで足が動きそうになります。
追いかける人の背中
この漫画でいちばん好きなのは、ライバルがずっと遠くにいることでした。
ヒカルがやっと一歩近づいたと思うと、アキラはもう三歩先を歩いている。アキラのほうも、ヒカルの中に、自分の知らない何かの気配を感じ続けていて、ずっと落ち着かない。二人とも、相手の背中しか見ていないんです。その背中の見え方が、巻ごとに少しずつ変わっていく。
プロ試験の巻は、長いマラソンの後半みたいでした。何週にもわたって続く対局の中で、受験生たちがそれぞれの事情を抱えて、少しずつ合格の枠から遠ざかったり、近づいたりしていく。石の意味は分からないのに、顔を見ていれば、どの一局が苦しいのかが分かるんです。小畑健さんの描く、盤を見下ろす横顔は、それだけでページをめくる手を止めさせます。
そして、物語の真ん中あたりで、ヒカルにとってとても大きな出来事が起こります。それが何かは、ここには書きません。自分はその巻を、夜中の三時に読み終えて、しばらくカップ麺のふたを開けたまま、ぼんやりしていました。そこから先のヒカルの碁盤の前での座り方は、それまでとまるで違って見えます。
秋の夜長に、もう一度最初から読んでいます。二回目に読むと、一巻で佐為が初めて姿を見せるあのコマが、最初とはまったく違って見えるんです。
作品データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ヒカルの碁 |
| 原作 | ほったゆみ |
| 漫画 | 小畑健 |
| 連載 | 集英社「週刊少年ジャンプ」(1999年〜2003年) |
| 巻数 | 全23巻 |
| アニメ | 2001年から2003年までテレビアニメが放送 |
浴びてほしいのは、試験や大会の前で、隣の誰かと自分を比べてばかりいる人です。比べる相手がいることは、苦しいけれど、ちゃんと自分を前に進ませてくれる。それから、しばらく連絡をとっていない昔のライバルがいる人にも。
近い気持ち
- 熱くなりたい……石の意味が分からないのに、汗をかく対局
- 背中を押されたい……佐為の碁ではなく、自分の手で打ちたくなるところ
- 誰かに会いたくなりたい……ずっと遠くにいるライバルの背中
九月の会で『夏目友人帳』の進行をしたあと、次に誰かに渡したい漫画を考えていて、真っ先に浮かんだのがこれでした。会で取り上げるには長すぎるので、ここに記録しておきます。
