八月の終わりの、いちばん暑い日曜日に、わたくしは鍋いっぱいの豚汁を作っておりました。
汗をかきながら、です。冷やし中華で済ませるつもりだった昼に、どうしても、脂の浮いた熱い汁が欲しくなった。原因ははっきりしております。前の晩に、『ゴールデンカムイ』の三十一巻を読み終えたからです。
雪と氷の漫画を、真夏に読みました。ひと月かけて、少しずつ。読み終えたいまも、部屋のどこかに冷たい森のにおいが残っている気がします。
とんとん、という音
明治の終わりの北海道が舞台です。
主人公の杉元佐一は、日露戦争から帰ってきた元兵士。どんなに傷を負っても立ち上がるので、戦場では「不死身」と呼ばれていました。ある事情でお金が要る杉元は、砂金を探して北海道の川に入っています。
そこで耳にするのが、アイヌの人々が隠した莫大な金塊の話でした。ありかを知る男は網走の監獄にいて、その手がかりを同じ監獄の囚人たちの肌に刻みつけた。囚人たちは、そのまま脱獄して散り散りになったという。
杉元は森の中でヒグマに襲われ、アイヌの少女、アシㇼパに助けられます。二人は手を組んで、金塊を追うことになる。
と、ここまでは宝探しの冒険の話です。けれど、わたくしがこの漫画に心をつかまれたのは、もっと手前、第一巻の、森の中で料理をする場面でした。
アシㇼパが、仕留めた小さなリスを小刀で細かくたたいていく。肉も骨も、まとめて、とんとんと。アイヌの言葉でチタタㇷ゚という料理です。たたきながら、アシㇼパは杉元にもやらせる。慣れない手つきで、杉元が刃物を振りおろす。
コマの中から、音が聞こえてくるのです。刃物が何かをたたく、あの規則正しい音が。わたくしは、ぬか床をかき混ぜる手の音を思い出しました。台所の音というのは、どこの国、どの時代でも、たぶん似ております。
「ヒンナ」を覚えた
この漫画を読んで、わたくしはひとつ言葉を覚えました。ヒンナ。アイヌの言葉で、食べものへの感謝をあらわす言葉だそうです。
作中で、アシㇼパは食べるたびにこの言葉を口にします。そのうち、杉元も言うようになる。さらに、旅の仲間が増えるたびに、ひとり、またひとりと、同じ言葉を覚えていく。
わたくしは、ここが好きでした。いただきます、でも、おいしい、でもなく、そのあいだくらいの言葉。食べものになった生きものへの挨拶のようにも聞こえます。
それから、笑いのことも書いておかなければなりません。アシㇼパは、杉元が持っていた味噌を見て、ある勘違いをします。この勘違いがなかなか解けない。わたくしは電車の中で読んでいて、肩をふるわせて笑いをこらえました。脱獄王の白石という男も、ひたすら情けなく、ひたすらおかしい。命がけの旅なのに、食卓はいつも少し騒がしいのです。
血と湯気
ただ、はっきり書いておきます。この漫画には、血の出る場面がとても多いです。戦争の記憶、獣との闘い、金塊をめぐる人どうしの争い。容赦がありません。
それでも、わたくしが最後まで読めたのは、どんなに激しい場面のあとにも、誰かが火をおこして、鍋をかけるからでした。仕留めた獣は、皮も肉も骨も、使いきる。粗末にしない。生きるために食べることと、生きものをいただくことが、同じ手の中にある。わたくしは、そこにこの物語のいちばん深い味を感じました。ぬか床のように、長い時間をかけて漬けこまれた味です。
後半、旅は北海道を出て、さらに寒い土地へ向かいます。そこから先は書きません。三十一巻を閉じた夜、わたくしは台所の明かりをつけたまま、しばらく立っておりました。翌日、真夏に豚汁を作ったのは、そういうわけでありました。
遠くへ行きたい人に。冒険の漫画は長くて手が出ないという人にも、第一巻の、あのとんとんという音までは読んでほしいと思います。そこまで来れば、あとはきっと、アシㇼパが連れていってくれます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ゴールデンカムイ |
| 作者 | 野田サトル |
| 連載 | 集英社「週刊ヤングジャンプ」(2014年〜2022年) |
| 巻数 | 全31巻 |
| アニメ | 2018年4月からテレビアニメが放送 |
