(ぬか)この特集の相談を始めた晩、わたくしが最初にしたことは、コンビニで塩むすびを二つ買ってくることでした。会社を出たのが夜の九時、頭の中ではまだ会議が続いていて、何を観る気にも、読む気にもなれなかったのです。
そのとき思いました。疲れた日にこそ感情浴をすすめたいのに、疲れた日には長いものを浴びる力がない。ならば、すぐに浴びられて、すぐに上がれるものだけを集めてみよう、と。
そこで、今回の候補には一つだけ条件をつけました。「三十分以内に、ひと区切りつくもの」です。長編の作品も入っていますが、一話、一章、一曲で止めても満足できるものに限りました。十一人から出た候補は四十あまり。ぬか床の野菜を選り分けるように、話し合って十一に絞りました。
作品ごとに、ひと区切りの「目安」も書いてあります。今夜の残りの体力と相談して選んでください。
声を出して笑って、空気を入れ替えたい
笑うと、体の中の古い空気が出ていきます。
テレビドラマ・2017年
『架空OL日記』バカリズム脚本
目安:一話 約三十分
(はるまき)家族が寝たあと、揚げものの油を片づけながら、一話だけ、のつもりで再生しました。気づいたら三話観ちゃいました。
銀行の支店で働く女性たちの、ほんとうに何も起きない毎日のドラマです。更衣室でのどうでもいいおしゃべり、ちょっと苦手な上司へのぼやき、コンビニの新作のお菓子の話。事件も恋もありません。脚本を書いた人自身が、OLの役で、なんの説明もなく普通に混ざっているのが、またおかしいんですよね。
いや、ほんとに、職場のあるあるの細かさに、何度も吹き出しました。自分の職場の嫌なことも、こうやって誰かと笑い合えばいいのかも、と思えてきます。
目安:朗読で二十分ほど
(こはぜ)朗らかな声で始まる朗読でした。その明るさが、あとになって効いてくるのです。
山へ狩りに来た二人の紳士が、道に迷い、腹を空かせて、一軒の立派な西洋料理店にたどりつく。扉を開けるたびに、身なりを整えろ、体に何かを塗れ、といった店からの注文が、次々と書かれている。紳士たちは、それを都合よく解釈して、どんどん奥へ進んでいくのです。
子どものころに怖い話として読んだ方も多いでしょうか。けれど、疲れた日に耳で聴くと、偉そうな紳士たちがあわてふためく声がどうにも可笑しくて、ぼくは柱時計の前で何度も笑ってしまいました。
何も起きない世界で、ひと息つきたい
事件も試練もない場所で、肩を下ろすための三つです。
テレビアニメ・2013年
『のんのんびより』
目安:一話 約二十四分
(凪)田んぼのあぜ道を、ランドセルを背負った小さな女の子が、ひとりでとことこ歩いていく、ただそれだけのカットが何秒も続くんです。セミの声と、風の音と、遠くの山しかないのに、自分はそこで仕事の電話の声がやっと頭から抜けていくのが分かったんです。
全校生徒が数人しかいない山あいの分校に、都会から女の子が転校してくる。とくに何かが起こるわけでもなく、駄菓子屋に行ったり、川で遊んだり、季節の行事をしたりして、一年が過ぎていく。何回観ても、観ているあいだは呼吸がひとつ深くなります。
疲れた日に、一話だけ。それ以上は求めない作品です。
目安:読み聞かせで十分ほど
(めじろ)お風呂あがりの、髪がまだ濡れたままの子に読むのは、決まってこの一冊です。
男の子が、おもちゃのあひるを連れてお風呂に入ります。すると、湯船の底から、カメやペンギンや、オットセイや、カバや、とうとう大きなクジラまで、次々に上がってくる。みんなで背中を流したり、湯船につかって数をかぞえたりするんだなあ。
感情浴、という言葉を使うようになってから、この絵本がますます好きになりました。湯気のむこうの、やわらかいタオルみたいな時間。大人がひとりで開いても、ちゃんと肩の力が抜けます。
目安:一曲 三〜四分、アルバム通しで四十五分ほど
(栞)部屋の明かりを一つだけ残して、再生しました。
ピアノと、低くて少しかすれた歌声と、控えめなギターやベース。どの曲も、大きく盛り上がることがありません。張りつめていた気持ちが、音と一緒に少しずつ沈んでいく順番が、とても自然に作られている気がします。
疲れているときは、一曲目だけ聴いて止めてもかまいません。できれば、明かりを一つ消してから再生してみてください。部屋の空気が、ぬるいお湯のように静かになりました。
頭の中の会議を、すっきり終わらせたい
モヤモヤを、誰かが代わりに晴らしてくれる二つです。
目安:一話 約五十分(一話完結)
(タカノツメ)結論から言う。言い返せなかった日に観るべきドラマは、これである。
金に汚く、口が悪く、勝つためなら手段を選ばない弁護士と、正義感だけは人一倍の新米弁護士が組んで、毎回ひとつの裁判を戦う。主人公の長い弁論は、ほとんど早口の独演会なのだ。相手を言葉でこてんぱんにする。その痛快さが、激辛の麺をすすったあとのように、あとからしびれてくる。
しかも脚本が、ただの勧善懲悪では終わらせない。痛快なのに、最後にぴりっと考えさせる。会議で言い返せなかった言葉を、小生はこの主人公に代わりに言ってもらっている。
目安:二時間十分ほど(週末の前の夜に)
(ロク)百三十一分のうち、いちばんすっきりするのは最後の四十分だ。
伝説的な戦闘機乗りが、教官として呼び戻される。困難な作戦のために、若いパイロットたちを鍛え直す。筋は単純だ。単純でいい。
画面の端に、操縦席の計器と、パイロットの顔が同時に映る。実際に機体に乗せて撮った映像が多いと聞く。重力で顔がゆがむ。その本物の重さが、作り物の爆発より効く。
要するに、機械と人間が限界まで噛み合う映画だ。疲れた日に観ると、帰り道のもやもやが、エンジンの音にまるごと吹き飛ばされる。長いので、金曜の夜にどうぞ。
張りつめたものを、ほどいていきたい
固まった肩と心を、少しずつゆるめるための三つです。
目安:一章 十五分ほど
(灯)夜の十時すぎ。ほうじ茶を淹れて、一章だけ読みました。
大学生のころに、なんとなく茶道を習い始めた書き手が、それから二十五年、お稽古に通い続けた日々を綴ったエッセイです。最初は、細かい決まりの意味がまったく分からない。それでも続けているうちに、ある日ふと、雨の音や、季節の掛け軸の意味が、体のほうに分かってくる。
仕事で疲れた日は、分かることばかり求められます。この本は、分からないままでいていい時間があることを、静かに思い出させてくれます。一章ずつが短いので、たぶん、寝る前に一つで十分です。
目安:一部屋 十分〜二十分
(ヤギ)段ボールを一つ開けて、最初に出てきたのはマグカップだった。
引っ越しの荷ほどきをするだけのゲームだ。箱を開けて、中身を一つずつ取り出して、部屋のどこかに置いていく。説明の言葉はほとんどない。点数も、時間制限もない。
でも、出てくる物を見ているうちに、この部屋に住む誰かの人生が分かってくる。学生の頃の部屋、ルームメイトとの部屋、二人暮らしの部屋。ある物が、ある部屋でだけ、置き場所がない。そこで手が止まった。
頭を使わずに手だけ動かしていられるから、疲れた日にちょうどいい。一部屋片づけたら、今日はおしまい。
目安:一話 十五分ほど
(草餅)会社のオフィスで、主人公が息をうまく吸えなくなって倒れるコマから、この話は始まる。ちなみに、うちの会の凪とは関係ない。
空気を読みすぎて、疲れきった二十八歳の女性が、仕事も、恋人も、住んでいた部屋も手放して、郊外の古いアパートでお暇をとる。まっすぐに伸ばしていた髪も、ほどいてくるくるの天然パーマに戻す。お金はない。でも、隣の住人とお茶を飲んだり、公園でぼんやりしたりする時間がある。
うちはこの漫画を、疲れて帰ってきた夜に一話ずつ読む。コマとコマのあいだで、主人公が小さく深呼吸しているのが分かるから。若葉色の、ゆるい風が吹く漫画なんだ。
おなかを空かせて、一日をおしまいにしたい
最後は、わたくしから一冊。
目安:一話 五分ほど
(ぬか)二十代の会社員の女性が、仕事帰りにひとりで小さなお店に入り、一品のつまみと一杯の酒を味わう。一話はそれだけの、数ページのお話です。
わたくしは飲めないほうなのですが、この漫画の、ひとくち目を口に入れた瞬間の主人公の顔がたまらなく好きです。仕事でどんなことがあっても、目の前の焼き魚の皮が香ばしければ、その夜はもう大丈夫。そう信じさせてくれます。
疲れた夜に数話読むと、冷蔵庫をあけて何かひと品こしらえたくなります。白いごはんが欲しくなりますが、夜遅くは、ほどほどに。わたくしも先週、それで一度しくじったのでありました。
この特集の使い方
(ぬか)最後に、十一人で話し合ったことを少しだけ。
疲れた日の感情浴は、「浴びきらなくていい」ということを、いちばん大事にしてください。一話で眠くなったら、それはもう十分に浴びた証拠です。続きは、次の疲れた日のために寝かせておけばよいのです。ぬか床と同じで、寝かせた作品は、次に開いたときに少し違う味がいたします。
場面「仕事で疲れた日」のページには、この特集に入れなかった作品の記録も並んでいます。気持ちの辞典の「笑いたい」「癒されたい」「ほどけたい」からも、近い作品を探せます。









