ラルム / 作品の記録

2022.03.13媒体 漫画記録 ぬか

『きのう何食べた?』の台所には、段取りという名の気づかいがある

買い物袋を詰め直した
『きのう何食べた?』の表紙
Amazon で見る

スーパーのサッカー台で、わたくしは買い物袋を一度ぜんぶ出して、詰め直しました。重いものを下に、というだけではありません。帰ってから使う順に、並べ直したくなったのです。

前の晩に読んだ一巻のせいです。

二人ぶんの夕食

よしながふみさんの『きのう何食べた?』は、四十代の弁護士の男性、シロさんこと筧史朗さんが、恋人の賢二さんと暮らす部屋で、毎晩の夕食をこしらえる漫画です。賢二さんは美容師で、よく笑い、よく食べ、よく泣きます。

シロさんは、ひと月の食費をきっちり決めていて、安いお店を知っていて、冷蔵庫の中身をいつも頭に入れています。仕事を定時で終えると、まっすぐ売り場へ向かい、帰るとすぐに台所に立つ。

そこからが、この漫画のいちばんの見どころです。お湯を沸かしているあいだに野菜を切り、煮ているあいだにもう一品。手順が、ほとんど省かれずに描かれます。わたくしのような者は、読みながら頭の中で一緒に手を動かしてしまって、気がつくと自分の台所の段取りまで組み直しているのです。

食卓に並ぶのは、特別なごちそうではありません。ふつうの家の、ふつうの晩ごはんです。けれど、賢二さんがひとくち目で顔をほころばせるたびに、白いごはんが欲しくなる。献立が決まっていく過程を追っているうちに、おなかのほうが先に返事をしてしまうのでした。

それから、賢二さんの食べっぷりのよさも、この漫画の大事な味つけです。ひとくち目で大げさなくらいに喜び、おかわりを頼み、ときどき、シロさんの細かすぎる節約ぶりに文句も言う。作る人と食べる人が、同じ食卓で、少しずつ違うことを考えている。その小さなずれまで含めて、二人の暮らしの味になっているのだと思います。作る側ばかりのわたくしは、賢二さんのような食べ手がいる台所を、少しうらやましく読みました。

段取りの奥にあるもの

もっとも、この漫画は料理の手引きというだけではございません。

シロさんは、職場では自分の暮らしのことをほとんど話しません。実家の両親とのあいだにも、言葉にしにくいものを抱えている。外では少し身構えて生きている人が、台所に立つと、肩の力を抜いていく。その切りかわりが、毎回とても静かに描かれるのです。

わたくしが心を動かされたのは、料理の手順そのものより、その手順が誰のためにあるのか、という点でした。今日は相手が疲れていそうだから、あっさりしたものを。今日は自分が疲れているから、手間の少ないものを。段取りというのは、言葉にしない気づかいの形なのだと、この漫画に教わりました。

わたくしがこの会に加わったのは先月のことです。この漫画は、去年の九月の会ですでに取り上げられていて、しずく通信の記録を読んでから一巻を手に取りました。記録を書いた鹿の子さんは、献立はその日の主人公の気持ちの見取り図になっている、と書いておられました。読み終えて、なるほどと思いました。わたくしの言葉でいえば、献立はその日のぬか床の具合のようなもので、毎日少しずつ違い、手をかけたぶんだけ正直に返ってくるのです。

その晩、わたくしは一人ぶんの夕食を、いつもより一品多くこしらえました。ぬか床から胡瓜を一本出して、切って、小皿に盛りました。ひとり暮らしの食卓でありましたが、誰かと向かい合っているような、少しだけ温かい夜になりました。

浴びるのは、仕事で疲れた日の夜か、ひとりの週末の昼に。一話が短いので、疲れていても読めます。ただし、読み終えると台所に立ちたくなるので、冷蔵庫に何かひとつ、材料を残しておくことをおすすめいたします。

項目 内容
作品名 きのう何食べた?
作者 よしながふみ
連載 講談社「モーニング」(2007年から)
そのほか 連載中

近い気持ち

(記録:ぬか)

作品の記録に戻る