ラルム / 読みもの

2022.05.21文 鹿の子

犯人を知っている本を、もう一度読むということ

結末を知ってしまった推理小説を読み返すとき、人はいったい何に驚いているのだろうか。

去年の十月の感情浴会で、筆者は綾辻行人の『十角館の殺人』を選び、進行役をつとめた。テーマの気持ちは「驚きたい」だった。記録を書いてくれた灯は、二度目の読書だったにもかかわらず、ある一行のところで少しだけ息が止まったと書き、その頁に付箋を一枚貼ったと書いていた。あの一文を、筆者は今でもときどき思い出す。

会の準備のために、筆者はこの本を三度目に読んだ。最初に読んだのは学生のころで、二度目は会の候補に挙げる前、三度目は会の一週間前である。当然、二度目以降は犯人も、仕掛けも、全部知っている。それでも、三度目の読書は、最初の読書とは別の種類の驚きに満ちていた。今回は、そのことを書いておきたい。

一 見取り図を持って歩く

ところで、この小説の舞台は、孤島に建つ十角形の館である。大学のミステリ研究会の七人が、過去に凄惨な事件のあった島に渡り、その館で一週間を過ごす。物語は、島の上の出来事と、本土に残った人々の動きとが、交互に語られていく。

最初の読書では、筆者は館の見取り図を、ほとんど頭に入れないまま頁をめくっていた。誰が次に消えるのか、それだけが気になって、廊下の曲がり方や扉の位置など、どうでもよかったのだろう。

二度目以降は違う。筆者の手には、すでに完成した見取り図がある。どの部屋に誰がいて、どの扉がいつ開いたのか。そのすべてを知ったうえで、もう一度同じ廊下を歩く。すると、最初は素通りしていた一行が、実は扉の蝶番のように、物語全体を支えていたことに気づく。作者が、驚くほど公平に、手がかりを読者の目の前に置いていたことが分かるのである。

驚きの中身が、変わるのだと思う。最初は「何が起きたのか」に驚き、二度目は「なぜ自分は気づかなかったのか」に驚く。後者の驚きのほうが、ずっと静かで、ずっと長く残る。

二 鉛筆の線

筆者には、再読のときだけ鉛筆で線を引く癖がある。

初読では引かない。線を引くと、その一行が大事だと自分に教えてしまうからだ。二度目からは、遠慮なく引く。三度目の『十角館の殺人』は、ある一部分だけ、線で真っ黒になった。どこかは書かない。読み終えた人なら、おそらく同じ場所に線を引くだろうと思う。

ひとつ確かなのは、あの一行が、初読のときには読み手の目をすり抜けるように置かれていた、ということだ。三度目の筆者は、その一行の前で、しばらく鉛筆を持ったまま動けなかった。一行の置き場所ひとつで、これほど大きな建物を支えられるのかと。

三 知っていることを言わない

会の前に、筆者はメンバーにひとつだけ約束をお願いした。結末には、どんな形でも触れずに話そう、というものだ。

これが、思っていたよりずっと難しかった。驚いた理由を話そうとすると、どうしても結末に近づいてしまう。だから当日は、どこで最初におかしいと思ったか、という結末の手前の話だけをすることにした。それでも凪は何度も言いかけては黙り、はるまきは途中で犯人を三回変えた話をしながら、危うく四回目を口にしそうになっていた。

それでも、結末に触れずに話した九十分は、筆者にとって得がたいものだった。驚きの中身ではなく、驚いたときの自分の体のことを、みんなが話したからである。頁をめくる手が止まった人。声を出さずに天井を見上げた人。灯のように、その頁に付箋を貼った人。同じ一行に、それぞれの体が違う反応をしていた。

驚きを人に渡すとき、結末は要らないのかもしれない。必要なのは、驚いたときの自分の様子のほうだろう。

四 雨の日の再読

先週、雨が一日やまなかった日に、筆者は四度目の『十角館の殺人』を読んだ。今度は会の準備でもなんでもなく、ただ読みたくなったからだ。

四度目になると、もう手がかりを探す気もない。筆者は、ただ島に渡った七人の、他愛ない会話を聞いていた。彼らが夜更けに交わす、将来の話や、好きな作家の話。最初の読書では読み飛ばしていたその会話が、四度目にはひどく寂しく聞こえた。彼らの多くに、その先の未来がないことを、筆者は知っているからである。

驚きの小説が、何度か読むうちに、寂しさの小説に変わっていく。それもまた、再読という感情浴のひとつの形なのだと思う。

犯人を知っている本を、もう一度読む。そこには、最初の読書では決して見えなかった部屋がある。本棚に、結末を知っている推理小説が一冊でもあるなら、雨の日にでも、見取り図を片手にもう一度、その館を歩いてみてほしい。

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