なぜ、あれほど自分の車にこだわっていた男が、見知らぬ若い運転手にハンドルを預けられるようになったのか。
この回のこと
二月の感情浴会は、濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』を取り上げた。進行はロク、記録は筆者である。上映時間は三時間ちかくあり、会の中で同時に再生するのは難しいので、それぞれ映画館で観てきてから話す形にした。
今月からぬかが加わった。初めての会がこの作品というのは、なかなか大変だったかもしれない。十人になった。
妻を亡くした舞台の演出家が、演劇祭に招かれて、ある地方の街でしばらく過ごすことになる。そのあいだ、彼の赤い車を運転するのは、口数の少ない若い女性の運転手である。村上春樹の短編をもとにした作品で、去年の十一月の会で同じ作家のエッセイを読んでいたから、灯はその続きのような気持ちで観たと言っていた。
それぞれの答え
冒頭の問いには、人によって違う答えが出た。
ロクは、要するに、車は主人公にとって、妻の声が残っている部屋のようなものだったのだ、と言った。車内で繰り返し流される台詞の録音の話である。その部屋に他人を入れるまでに、あれだけの時間が要る、という読み方だ。
栞は、運転手の運転が、音をほとんど立てないことに注目していた。揺れない車の中で、主人公はようやく自分の声を聞けたのではないか、と。
ぬかは、観終えて最初にしたかったことは、温かい汁物をすすることだった、と言って場を和ませた。そのうえで、二人が車の中で煙草を分け合う場面は、ものを食べるのと同じくらい、何かを分け合う場面に見えた、と話した。初めての会とは思えなかった。
筆者のこと
筆者の答えは、途中で出てくる演劇の稽古の場面にある。いくつもの言語で、互いの言葉が分からないまま、それでも一つの芝居を作っていく。言葉が通じないことを前提にした場所で、はじめて人は他人を信じるのかもしれない。
ところで、救われたい、というテーマでこの作品を選んだロクは、救われる映画ではなく、救われてもいいと思える映画だ、とだけ最後に言った。ひとつ確かなのは、この三時間が、観た全員にとって少しも長くなかったということだ。
(記録:鹿の子)